「尖った笑い」と「丸い笑い」

 玉城デニー沖縄県知事が、なんの脈絡もなく「ゼレンスキーです」と挨拶し、不謹慎だと叱られたニュースが流れてきた。バカだなあ。そういうのは、今ではすっかり枯れてしまったビートたけしの持ちネタだよ。「この人ならこういうことを言うだろうな」というところで、言いそうな名前を名乗るからネタになるんであって、反体制ポーズで親中勢に支持されている沖縄県知事が言って笑いが取れるネタではない。「プーチンです」「習近平です」「趙立堅です」あたりならまだネタになったかもしれないが。(どのみち別の筋から怒られはするんだろうけど。)

 お笑いには、攻撃的で消費的な「尖った笑い」と、予定調和的な「丸い笑い」がある。お笑い界で覇権を取った、たとえばコント55号、やすしきよし、ビートたけし、ダウンタウン……全盛期の彼等の笑いは瞬発的で、攻撃的で、反体制的で、それでいながら観ている者には陶酔感すら引き起こさせる。
 その一方で、たとえば一昔前の演藝番組に出てくるような、劇的に面白くもないしオチも見えてるのに観客はそこそこ笑う、といった、優しいというか、ぬるいというか、抑制的なお笑いもある。呼吸困難になるほどの笑いはないが、聞いていれば面白おかしい気分にはなるし、無防備に聞いているとたまに笑わされることもある。そうした藝人達が最初からそういう笑いを目指していたのかはわからないが(そもそもその地位につきそこに落ち着くにも相当なスキルが必要だろう)、結果的にそういうニーズに応える形で、そういう藝人がいて、そういう藝能のジャンルがある。別にこういう「丸い笑い」が下とかそういう話ではない。使う筋肉も方法論も受け止められ方も違う。おなじ「お笑い」として括られてこそいるが、そもそも別の物といってもいいのかもしれない。
 落語なども、(完全な創作落語はともかく)聴者の少なからずが演目のオチを知っていて、演者もそれを承知でアドリブやアレンジを加えた上で、「お笑い」として成立している。おそらくだが、古典とされる落語も初演では「尖った」笑いだったろう。だが時代を経て笑いが「枯れて」いき、いまのような「伝統藝能」となった。噺家個人の資質として会場を爆笑させることはもちろん可能だろうが、今更「寿限無」やら「時蕎麦」やらで、呼吸困難になるほどの爆笑させることはできまいし、演者とてそんなことを考えてもいなかろう。とはいえ枯れたネタをいくら上手になぞっても、一定以上の評価はされない。藝人は尖った笑いを隠し持ってこそで、丸い笑いを演じるふりをしながら、隠し持ったナイフで客を刺してこそなのかもしれない。笑点ではつまらないキャラクターを演じていた●●氏も、実際に呼んで講演させたら爆笑を巻き起こしたという話もある。

 日本の戦後のお笑いを語る上で欠かせない「ザ・ドリフターズ」を先の例で挙げなかったのは、ここからが本論だからだ。1970年代のドリフターズは「尖った笑い」だったのかもしれない。テレビで「うんこちんちん」を連呼し、やっと貧しさは駆逐しつつあったがまだその記憶が鮮明な時期に食べ物を粗末に扱い、権威(いかりや)を挑発し、ストリップの真似事をする。PTAが「子供に見せたくない番組」に選ぶのも頷けよう。だが1980年代には既に「コントは生放送だけど内容は再放送」と揶揄されるようになっていた。(そういう揶揄が1990年代のファミ通でされていたのを知るだけだが……。)襖を閉めればタライが落ちてきて、階段を昇ると踏付が坂になり滑り落ちる。志村が道具を使うときだけ誤作動し、志村の死角にオバケが出て子供達が叫ぶ。視聴者には「毎度再放送」のように見えても、コントは毎週細部に至るまで綿密な打ち合わせをして、練り上げたコントを作っていたそうだ、これは言うなれば、稽古を積み重ね、落語のようにネタを練り上げて、「丸い笑い」を目指したのだろう。やがて『8時だヨ!全員集合』は、漫才ブームに乗った若くて勢いのある「尖った笑い」の『オレたちひょうきん族』に負け、終焉を迎える。
 だが、「尖った笑い」というのも、いつまでも続けられるものではない。まず、そこまで殺気だった笑いを長期間提供し続けられるだけの体力がある芸人がほとんどいない。例えば「奇人ネタ」は尖ったネタだが、奇人として周知されてしまえばそれは丸いネタである。奇人として尖り続けようとしたら、毎度異なるタイプの奇人を演じ続けねばならない。「オサムちゃんっでーす!」も「ア! ダ! モ! ス! テ!」も奇人ではあるが、既に了承された奇人は予定調和でしかない。「今日もおさむちゃん(島崎)元気やなあ」という確認の笑いが生まれるに過ぎない。ギャグフレーズなども同様で、何度も同じネタが許されるのは、それが「お約束」となった人達だけである。「コマネチ!」にしたって、最初は(あの時代にあっては刺激的だった)ナディア=コマネチのレオタードのビキニラインの食い込みを表現して「お前ら『白い妖精』とか言って持て囃してるけど、鼠径部見てるだけじゃねえか」と社会を煽る意味もあったのだろうが、今となっては「ビートたけしの定番おもしろムーブ」でしかない。むしろナディア=コマネチを知らない・覚えていない人のほうが多かろう。
 いくら尖ったネタでも客は笑わなくなり、「そういうもの」として受容されるようになる。そもそも視聴者も刹那的で暴力的な笑いを受容し続けることはできないのだから、マンネリ化して「丸い笑い」へと枯れてゆくのは正しい。それに抗って尖り続けようとすれば、知らず知らず馴れ合いのうちにお笑いの強度が弱ってゆく。『ひょうきん族』はそのきらいがある。かくして『ひょうきん族』は、ドリフの中でも尖った笑いを担当していた加藤と志村の『ごきげんテレビ』に食われ消滅した。二人は尖った笑いを提供していたが、こちらも次第にマンネリ化し、「おもしろビデオ」という今日のYouTubeも連なる「丸い笑い」のフォーマットを残して消えた。
 90年代後半からのドリフは完全に回顧需要であり、「再放送」としての笑いだったように思う。新作コントもいくつか作られたが、既存のネタを多少アレンジした程度のものが多かった。(もっとも、「伝説」になっている志村と加藤の階段落ちコントは1996年であったりもするのだが。)
 だが、それで良かった。爆笑はしないかもしれないけど、観ていてもつまらない気分にはならない。何となく知った顔がバカをやっている。こういう笑いの重要さに気付いたのは、思春期を過ぎた頃だった。もっと言えばそれは、いかりや長介の逝去によるものだったかもしれない。思えば『志村けんのだいじょうぶだぁ』も最初期以外はそんな感じだったっけ。

 「ダチョウ倶楽部」の名を知ったのは、18時台にテレビ朝日系で放送していた子供番組『パオパオチャンネル』である。月曜日の出演で、月曜はアニメコーナーで『ドラえもん』の再放送をやってたのでよく見ていた記憶がある。「プロレス天気予報」と称して、メンバーが太陽と雲と水滴のかぶり物をしてプロレスをし、ごちゃごちゃする、という内容だった気がするが、内容はほとんど覚えていない。
 やがて彼らは『たけしのお笑いウルトラクイズ』に出てきて「聞いてないよ!」で大ブレイクした。身体を張ったネタで笑いを取る中で「リアクション藝」というジャンルが確立した。初期の『お笑いウルトラクイズ』では実際に危険だったこともあったようだが、さほど熱くない“熱湯風呂”や“熱々おでん”を大袈裟に熱がったり、サウナの中でのぼせて見せたり、冷凍倉庫で凍えて見せたり。それまで視聴者は、熱々おでんを食わされたり熱湯風呂に入れられるタレントを本気で心配していたが、「そんなに熱くない・痛くないものを大袈裟に騒いでみせる藝がある」という事実を周知し、リアクションを尖った笑いから安心してみていられる丸い笑いへと変えた。間違いなくこの番組(と『スーパージョッキー』)の功績だ。
 そんなダチョウ倶楽部だが生み出したギャグもまた偉大である。「聞いてないよ~!」「どうぞどうぞ」「押すなよ」「あれ、いつの間に……」「殺す気か! 訴えてやる!」「すみません、取り乱しました」など……もう二十年以上も使われているフレーズ(他にジャンプ藝やキス藝など)もあるが、まだ現役として使われるものが多い。まさにバラエティの「お約束」になっている。ふつう、ギャグの寿命はそう長くない。21世紀になってできたこの手のギャグで、今でもバラエティで通用するのって、「ゲッツ!」と「キレてないですよ」ぐらいではなかろうか。それらですら若干の古さを禁じ得ないし、SNSで使うのはちょっと厳しい気がする。ところがダチョウ倶楽部のギャグは、もう当たり前すぎて「そういう流れ」のひとつとして何の違和感もなく存在している。もはやそれはギャグという域に留まらず、「ダチョウ式ボケ」というネタのフォーマット、汎用的に使える予定調和の型を作ったようなものだ。

 言うまでもなく、こうしたダチョウ倶楽部のギャグは、上島竜平というパーソナリティーに支えられてきた。それはあまりにも浸透し、上島は「そういう存在」として、まるで空気のように受容されてしまったがゆえに、表だって高く評価されることは少なかったように思えるのがたいへん悔やまれる。我々はいまその大切な空気を喪った悲しみに明け暮れている。せめて、上島竜平は藝人として偉大な業績を残し、天命を全うしたのだ、と思うことぐらいしかできずにいる。合掌。

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