「わからない」という喜び
この世の本質を知ることは、この世を効率よく生き抜くためのコツを得ることだと思っている。
この世界は自分の潜在意識の投影であり、その潜在意識を完璧に理解していれば何も悩むことはないだろう。
そしてそれこそがこの世で大切なことなんだと、そう思って自分と世界についての探究を進めてきた。
しかしふと思う。
仮に宇宙の真理を全て手に入れたとして、この世の全てを理解したとして、その後自分はどう生きるのだろうか?
きっと「つまらない」と思うのではないか。
全てを知ることは、生の終わりを意味するのではないだろうか。
困難や不都合を乗り越える上で、学び、知り、腑に落としていくことは必要だ。
目に見えない部分を感じ取ったり、その感覚を具現化できるということは、自己のランクを上げることに繋がる。
しかし我々は所詮は3次元の住人だ。
五つの感覚に、直感という不安定な感覚を足した六感の下でしか、物事を判断できない。
この次元における「スピリチュアル」という未解明な科学は、ここより高次元な世界では「当然」であり、その世界にもまた「スピリチュアル」がある。
我々次元において全てを理解することなど到底不可能で、知れば知るほどそこには混沌があり、ただただ手探りで、未知の世界たちとその繋がりが広大に広がっている。
全てを知れたら楽だと思う。
全てを知れたらもしかすると豊かなのかもしれない。
ただ、その豊かさを享受する器量なんて自分は到底持ち得ない。
だから錯誤し、試行するんだと思う。
やればやるほど見えてくるその混沌に誇りを持とう。
無知を自覚し、試行錯誤の末に見えた、1つの答えとその混沌さの前で、全てを手放しそして喜ぼう。
無知を知った喜びの中に、幸せがあるんじゃないかな。