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ソ連最後の夏の旅⑦レニングラード

ゴルバチョフが拘禁され、国家非常事態委員会によるクーデターが起こった、2日目。ソ連第2の都市レニングラードでは、「非常事態令」が出されました。もうなんか世界史的にすごいことが起っている中、私たちはワクワクしながらレニングラードの町を探検しました。

キャビア売りのトオル

ホテルに付属したレストランで朝食を取っていると、顔なじみになったウェイターがやってきました。あだ名はトオル。俳優の渡辺徹に似た風貌でなんとなく愛嬌があります。初日から、仕事をほったらかして、片言の英語で缶詰のキャビアをせっせと売っていました。そのトオルが、なんだか切羽詰まった顔をしています。

「キャビア、買って、1つ7ドルでいいよ」
前の晩は1つ10ドルだったのに。
「僕は昨日10ドルで買ったから、3ドル返して」
とツアー仲間のミタ君が言うと、
「昨日のキャビアは美味しかった。今日のは少し美味しくない」
と言い返しました。

「10コ買ってくれれば、1コ5ドルにするから」
としつこい。
「僕はもう、少し美味しくないキャビアはいらんとですよ」
とミタ君。

お人よしで優しい彼につっぱねられ、トオルはしゅん。としたのも束の間「これは美味しいから!」とイクラの瓶詰を持ってきたのですが、ミタ君はそっぽをむいたまま。どうやら闇商売が出来なくなると在庫さばきに焦っているようです。英語のできる女性スタッフを連れてきました。心配そうに女性スタッフと私たちのやりとりを見ていましたが、彼女がトオルに向かって何かビシッと言いました。するとトオルはガックリとうなだれて、厨房へ戻っていきました。

バスに乗って観光旅行に出発。窓の外は通常運転のように見えますが、角を曲がるとバリケードの跡がちらほらと。その上に突き刺さっているのはロシア共和国の旗でした。「10時から大規模集会」という噂がありエルミタージュ美術館は見られないかもとターニャさん情報。とりあえずペトロパブロフスク要塞の見学です。

ペトロパブロフスク要塞で囚人ごっこをする

レニングラードは革命前、ペテルブルグといいました。ロシア帝国の首都で愛称は「ピーテル」。1703年、ピョートル大帝により建設されました。そして始まりの場所がペトロパブロフスク要塞です。

1番目立つ尖塔が、ペトロパブロフスキー聖堂。121.8メートルの高さで、カメラにおさまりきれません。聖堂に入ると、まさかのファンシーな内装。いちごミルクとメロン色の壁、生クリームのようなレリーフ。天井にはエンゼル。ここには、歴代ツァーリの柩が納められています。ピョートル1世、エカテリーナ2世と馴染みのある名前を見付けました。そしてぽつんと新しい柩。そこには「ペレストロイカ」と書かれていました…。

要塞内には政治犯の監獄がありました。1917年の革命まで使用され、ドストエフスキーやレーニンも投獄されていました。するりと独房に潜り込んで、しばし囚人の気分にひたります。壁に鉄製のテーブルが突き出て、ベッドに座って書き物ができるような感じ。部屋は、そこそこの広さがありましたが、冬はかなり寒かったのでは。

一方そのころ宮殿広場では

囚人の真似をして遊んでいたころ、エルミタージュ美術館前の宮殿広場では、大規模集会が行われていました。翌日の新聞を見ると広場はぎっしりと人で埋まっていました。

「ロシアに『共産党の夜明け』が訪れたとき、ペテルブルグの宮殿広場には集まった人は少数だった。しかし、『共産党の日没』が訪れると、広場は数十万人の人で埋め尽くされた。それは、警察が、集会の参加希望者の入場を制限しなければならないほどだった…」

ロシア帝国時代、ここペテルブルグから革命が始まりました。フィンランドからレーニンが帰還、1917年10月、臨時政府が置かれた冬宮(今のエルミタージュ美術館)を制圧し、ソ連建国の第一歩を踏み出しました。

エルミタージュ (2)

エルミタージュ美術館

入場が危ぶまれていたエルミタージュ美術館ですが、広場で発砲事件は起こらず、美術館の中は観光客が闊歩していました。アメリカ人やイタリア人団体客のマナーはすがすがしいほど酷く、2階ではレンブラントが観光名所と化していました。展示室には、それぞれ係のおばあさんが配置され、根気よく注意をしていました。ソ連の融通のきかなさには辟易するものの、こうした文化・芸術を大切にする生真面目さには敬服です。

それにしても、美術館の内部は壮麗です。そしてコレクションも素晴らしい。3階に19世紀後半から20世紀初頭の西洋絵画が展示されていました。むせかえるようなゴーギャンの楽園、アンリ・ルソーの妖しげなジャングル。はかないシャボンの夢のようなモネ…。質量ともに素晴らしいマチスのコレクション。ピカソの部屋では、青の時代の終わり1905年に描かれた『少年と犬』が気に入りました。歩き回って疲れると、引き寄せられるようここに戻り、ベンチに座ってぼうっと見ていました。ここの係のおばちゃんも厳格な人で、外の宮殿広場を見ようと向きを変え、足がベンチにひっかかると、すぐさま飛んできて注意されました。

閉館時間まで居ましたが、とてもとても見ることができませんでした。おそるべし、エルミタージュ美術館。

天下のネフスキー大通り

「ペテルブルグの全てがこの通りにある」とロシアの文豪・ゴーゴリに描かれたネフスキー大通り。「ネフスキー通りに入るか入らないかのうちに、ひとはもう散策気分になってしまうのだ」。

というわけで、エルミタージュ前から、友人のトリ君とネフスキー通りをウキウキしながら歩きます。食料品店が目にとまり、何があるのか入ってみると。ガラスケースの前に3つの行列。先に「カッサ(レジ)」でお金を払い、品物を受け取るシステムです。ここで売っていたのが、袋に入ったマカロニ、ソーセジ、バター、各1種類。それだけ。いくつか店をのぞいてみましたが、商品はどこも1種類ずつ。これがソ連の国営商店。夕飯どき、店内はごった返していました。

声明文を見る人 (2)

一方、アーケード下で売られていたのは、アメリカ人俳優のポスターやブロマイド。スタローンやマドンナが人気らしい。白衣の女性が、キリスト教のパンフレットを売っていて、人が群がっていました。どうやら宗教ブームがきているのは本当のようです。そして、さまざまな種類のミニコミ誌。グラスノスチ(情報公開)の影響でしょうか。そして、相変わらず政変のビラに見入ってる人たちがいました。

エカチェリーナ像と変なロシア人

いくつか運河の橋を渡り、疲れたので公園で休憩しました。エカチェリーナ像のあるオストロフスキー広場。1700年代後半に在位したエカチェリーナ2世はやり手の女帝で「大帝」と称されました。オスマン帝国に勝利、さらに領土をポーランド、ウクライナまで拡大します。文化芸術の庇護者であり、エルミタージュ美術館のコレクションの礎になっています。それと、多くの愛人をもったことでも有名です。銅像には、彼女の足元に、多くの貴族の男性が侍っていました。

疲れてハイになったトリ君と、ベンチに座って日本語禁止、カタコトのロシア語と英語だけで話す「国籍不明人ごっこ」をして遊んでいると、仕立てのよいスーツを着たロシア人の2人組がやってきました。こちらは挨拶程度しかロシア語はわからず。相手は英語が話せない。

マルボロを取り出しトリ君に勧める。私の手を取って腕時計を見る。「時間が知りたいの」かと聞くと、チッチと指を振る。横に座って名刺を差し出され、私たちは怪訝な顔をして受け取らずにいると、黒いアタッシュケースから、ビニール袋を取り出し、「ドラッグ」と言う。目を丸くした私たちを見て、大笑いをして、そしてどこかへ去っていきました。一体何者だったのだろう。

レニングラードの黄昏

夜8時半ころ、ようやく茜色の空が広がり始めました。そのころ私たちは、「マルス広場」に面した、緑のじゅうたんが敷かれた庭園にいました。濡れたような樹々の緑、まばらに並んだ白いベンチ。人影が少なく閑静なこの辺りは、若き日のドストエフスキーが愛した場所だといいます。木陰のむこうに、「スパスナクラヴィ教会」の黄色や水色のタマネギ屋根が、顔をのぞかせています。

レニングラードは、歴史が交錯する面白い町でした。ピョートル大帝による建設に始まり、同じく偉大な女帝、エカテリーナが君臨。プーシキンやドストエフスキー、ゴーゴリなどの文豪たちが逍遥する。ロシア帝国を揺るがす革命が1905年におこり、1917年2月の革命で帝国はその命を終え、そして10月、レーニン達が政権を奪取した革命が起こる…。そしてさらに、ソ連の息の音を止めることになった、クーデターが、その時、進行していました。

要塞

この日、集会には行きませんでした。クーデター政府に抗議する集会は、時間を変え、場所を変え、変幻自在に行われ、その跡が町のあちこちに残っていました。一方、人々の日常生活は、それはそれとして過ごされているようです。夕暮れのネヴァ川沿いを歩き、いったいこれからどうなるのかと、ペトロパブロフスク要塞のシルエットを眺めながら思いました。

1991年8月20日の動き

午前0時 ロシア最高会議ビル前に市民2千人が終結、ソ連軍の戦車10両が応援に向かう
午前7時 レニングラードに非常事態令が発令される
午後11時 モスクワに夜間外出禁止令が発令される


翌日、事態は急転回します。お楽しみに。
(仕事はそう忙しい訳ではないんですが、更新をさぼってました、ははは)

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