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『500日のサマー』
ずいぶん前に観たので、うろ覚えなのだけれど、とりあえず振り返ってみよう。
主人公・トムは「運命の恋」を信じていた。
対して、サマーは信じていなかった。
だけど、トムと別れてサマーは恋をする、それも運命的な恋を。
私は思う。
それは結局、トムがサマーに「運命」を感じさせたってことなんだと思う。
まるで、絵本の『100万回生きたねこ』(佐野洋子著)みたいだ。
トムの運命の相手は紛れもなく、サマーだった。
上のようなことを考えているときに、
この映画のレビューをめちゃくちゃ読んだ。
私としては、ガッカリだった。
なぜ、みんなわからないんだろう。
もちろん、映画なんて感じ方は人それぞれだ。
だけれど、サマーは性悪女だ、みたいな感想ばかりで、かなしくなる。
それは全然見当違いだと私は思う。
運命の相手なら相手に運命と感じさせてこそ。
サマーは運命を感じる、次の相手で。
それはやっぱり、主人公であるトムの功績だ。
トムにとって、オータムが何者なのかは神のみぞ知る。 彼にとって「運命の相手」なのだろうか。はてさて。
@rkykのツイートの引用だが、
「つまりはトムはサマーの様に異性と付き合う女の人に出会ったことがなくて、サマーもトムの様に純粋に好きでいてくれる男の人に出会ったことがなかったということなんだろう」
ということだと思う。
2016年8月29日
さて、3度目の『500日のサマー』。
もし仮に私がこの映画に神様として登場するのであれば、488日目のトムにこう言う。
「トム、なんでそんなに悲しそうな顔をしているんだい? 君の愛が伝わったんだ。全然落ち込むことじゃない。君は、愛なんて信じない人に運命を教えてあげられたんだよ」
2018年4月24日