それは絶対的にその絶対を絶対するってことなんだ
自分の職業に気づかされた。
時が過ぎるのはとても早い。
あの頃、自分の中には伝えたいメッセージが溢れるほどあった。それゆえ、自分の主張をこれでもか、といろんな人に訴えていた。闇雲に、デタラメに、むちゃくちゃに。
でも今は少し違う。
私は相手の話を聴き、相手の核となっているものが何なのかを探ろうとすることに重きを置くようになった。
職業病なのだろうか。
それでも変わらないものは変わらない。
私は更に「無邪気になった」。
また、「穏やかになった」。
時はまるで過ぎていない。
あの頃、私はこの世のことがすべてわかっているような錯覚に陥っていた。しかし、それはあながち間違いではなかったと思う。本当にいろんなことを知っていたし、わかっていた。
でも今は少し違う。
今では何一つわからない。まるで一つもわからないのだ。過去のわかっていた自分は確かにここに存在しながら、それでもわからないと思う自分がいる。
本当に直前の直前までジャッジしないこと、極端にいえば、その最中にさえも一切判断しないこと。
そこに私の今、今の私がある。
たとえば、「おはよう」という一般的にはよいとされる言葉でさえ、相手にとってはとてつもない凶器に簡単に変わってしまうことを「言葉一つで傷つくようなヤワな私♩」は知っている。
「いつだってこの場で一番の『弱者』を見つけるの。とびっきりの『弱者』を、ね。厳しいかもしれないけれど、条件は一つ。頑張っていること。もがいていること。悩んでいること。苦しんでいること。ガムシャラなこと。恥を晒していること。」
私の話に耳を傾けてくれる人なんていなかった。
だから、話を前よりも聴くようになったのかな?
そんなことをしても、誰も聴いてはくれない。
やはり、それは職業病だろうか。
私は私を救いたい。私は私で私を救いたい。
これは私の人生だから。これは私の闘いだから。
感情的にはいくら流されてしまってもお釣りがくる情況で、あなたがあなたの主張を通せたのなら、こんなに誇らしいことはない。
それでいい。それで絶対に間違っていない。
一切間違いがない。あなたはあなたの闘いを。
あなたの勝利は目前だ。
人生は勝ち負けじゃないっていうけど、私の言っていることも、いわゆる勝ち負けじゃない。
(私の言っていることは、わかりにくい。)
カッコ悪くても、たとえそれで「幸せ」を逃したとしても、全然問題ない。
それが、たとえディズニー映画によって後天的に洗脳されたものだとしても、あなたが、あなたであるために選んだことは絶対なんだ。
だから、その絶対を大切にしてほしい。
それで、あなたが「捧げたい今♩」と思うとき、その絶対を譲ってあげなさい。
譲れない想いがある人が譲るんだ。
それは絶対的にその絶対を絶対するってことなんだ。
2018年6月30日