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他人用と自分用

「物語」に作用されるのが悪いのではなく、それをどう使うかが問題で、物語自体には意味などない。すべては「因果的に起こったわけでもなく、予め決定されていたことでもない。共時的で多義的な現象がたまたまそのように見えている」(福岡伸一)だけである。よくも悪くも、自分で決めて使えばいい。仮に悪いものだとしても、それが自分に合うのなら、迷わず選び取るべきだ。トリカブト自体が悪いのではなく、人間との相性がよくないだけなのである。

一貫していなくてもその都度、自分が好きなものを選んでいいでしょう。それでどう一貫していないかがわかっているのなら、なんの問題もない。なぜ一貫させなくてはならないのかを考えたらいい。一貫させること自体は自分用ではなく、あくまで他人用であるはずだ。

「忍者の世界でルールや掟を破るやつはクズ呼ばわりされる。けどな! 仲間を大切にしない奴はそれ以上のクズだ」と、コピー忍者のカカシ(『NARUTO』)はいった。
これはサッカーでもそうで、まずはチームとしての戦術や決め事が大事である。それを守らなければ、みんなが死ぬ。でも、たとえば仲間に「バカ」がいて、行ってはいけないところで勝手に飛び出してしまったとする。そうなれば戦術なんて無視して、その仲間のために連動しなければならない。そうやって動くことがチームを救うからだ。それがいちばんの戦術となる。


相手に不快な思いをさせたから、とりあえず謝っておく、という精神がわからない。相手をそんなに知らないのであれば、ふたりのあいだにルールなるものが確立されておらず、なにかで相手を不快にさせてしまうのは当然である。
相手が不快感を示したら、まずは自分はこういう意図であるということを伝えるべきだろう。自分が間違っている可能性があっても、すぐには謝らない。一度は相手に主張をぶつけてみる。そうすれば、確度が上がる。そのあとで、どうするかを決めたらいい。
一度は謝ってきた奴にどういう経緯でそうなったかの説明を求めると、「だったら、謝らない」といわれたことがある。わたしが謝罪するなら、土下座する気で謝るし、取り消すなんてことはないだろう。どういう経緯で、どんな意図でやったか、そして今後はこういうふうにすると説明するところまでがセットだ。


カッコいいことをするとき、それをされたほうもめちゃくちゃカッコいい。いや、むしろ、されたほうのがカッコいいかも。


木を切ることがただ悪いのではない。木を切るということがどういうことかがわかっているのなら、いくらでも木を切っていい。これは保守思想の話である。


誰かをを叩くときに、なぜ正しさみたいなもので保険をかけるのだろう。そうじゃないだろう。ただ気に入らないから、ぶん殴るというシンプルな暴力を見せてくれよ。


究極的には、なにをしてもハラスメントにならない関係性を構築すればいいだけなのに、誰に対しても同じ基準で接しているから問題が起こる。そのルールが通じなければ、相手がおかしいと考える。それって、そもそも目の前の相手と向き合っていないということなんだ。だから、ひとりよがりだって思うんだよ。
故意なら構わない。ハラスメントだって、「年齢を聞いてはならない」というマニュアルを信じているようだけど、そうではないでしょう。目の前の相手とのルールや基準をつくることをせずに、ただ一般的にNGとされることをいわないようにすることで、目の前の相手をなきものとしていることに気がつかないのか。


怒っているのは、あなたが勝手にわたしの食べ物を食べているからではない。「勝手に食べないで」といわれたぐらいでやめるのなら、初めからやるべきではないんだ。あるいは、「おまえならいいか」と思われるような信頼関係を築くべきだろう。注意してやめるのは、そんな想定すらしていなかったということなのか。人間をバカにするなよ。


他人とファール(反則)の基準が違うから気が合わないのかもしれない。あるいは試合を通じて、その基準を決めようとしないその態度に腹が立つのかも。


たとえ悪いことをしても、それが悪いことだと認識できていればいいんです。だって、そんな人に「それは悪いことだよ」というのは野暮でしょう。


ちゃんと話を聞いてくれない人がいて、聞かないのは全然かまわないのだけど、聞いているふうで接してくるのがキツい。「私はあなたの話を聞かない」という強い意志が見えなければ、それは成り立たない。そういう奴に限って、「他人の話を聞かないことは悪いこと」と思っていやがる。むちゃくちゃである。


2023.9.6-14

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