やさしさの出発点
映画『男はつらいよ』(第15作寅次郎相合い傘)を観ていたら、あるシーンで疑問が出てきた。
マドンナでも誰でもお客さん(今回はリリー)が「とらや」に来ると、おいちゃんがおばちゃんに「ほらほら、お茶、お茶」と言うのである。
このシリーズでは、何度も観るシーンだ。
要するに、お茶を用意するのは、夫(男)ではなく、妻(女)であることが前提となっていて、特に誰も違和感を感じないような世界なのだ。
もちろん、いまとは時代が違う。だから、単にこの映画を責めているわけではない。
むしろ、このシリーズは、人間の感情の機微をうまく捉え、それらを絶妙な形で表現し、笑って泣ける、とっても愛のある映画に仕上がっている。
ただ、なぜ、おいちゃんは誰よりも早くお客さんをもてなすために、お茶を出そうと思ったのに、自分でやらないのだろうか。他の人にやらせるのだろうか。
やっぱり、〈現代人〉の私にはわからない。
このエピソードから、やさしさについて書くには少々無理があるかもしれないが、私はこの中にもやさしさにつながる何かは隠れていると思う。
やさしさとは○○と、一言では説明できないし、状況が違えば、答えはひっくり返るものだ。
だけど、いま言えることは、
「自分のやれることは自分でやる」。
これがやさしさの出発点じゃないか、と思う。
出発点でもあり、答えでもあるような気がする。
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このnoteでは、やさしさとは何なのかを解剖してみたいと考えている。
まずは、自分がやさしさと関係のあると思える、具体的なエピソードを挙げてみようと思う。
一見、関係ないような話を紹介するかもしれないが、私はつながりがあると思って書いている。
また、これを書き終える時があれば、それらを読み返して、結論めいたものが導き出せるかもしれないと期待している。
どうかお付き合い願いたい。
やさしさについて考えていくと、男女や人種の差別など色々な問題にもつながっていくと思う。
これから、ゆっくりと書いていこう。
※幡野広志さんの『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』を読んで、触発された節があることをここに告白する。