『すべての男は消耗品である』
私にとって、本とはなんなのか。
本当に本が好きなのか?
別に好きでなくてもいいのだが、必要なものだと思っているのか?
ここに白状すると、私は高校を卒業するまで、ろくに本なんて読んでこなかった。
それまでは、ほとんどがサッカー。
そして、少々のお勉強。それだけだった。
19の頃、初めてちゃんと本と出合う。
東京藝大に進んでいた絵描きの同級生に勧められたのがきっかけだった。
それは、
『すべての男は消耗品である』村上龍(角川文庫,1990)
そして、
『ファザーファッカー』内田春菊(文春文庫,1993)
の二冊だった。
先に読んだ、『すべての男は消耗品である』は、なにもかもが衝撃的だった。
単行本の初版は1987年(らしい)。
2006年頃に読んだのだが、出版されたのは私が生まれた頃だ。雑誌の連載だろうから、実際には生まれる前に書かれたものかもしれない。
でも、私にとってはまったく古びれることなく、とっても刺激的で、アヴァンギャルドだった。
とにかく、その熱量、パワーに圧倒された。
その頃、村上龍という作家のことなど何も知らなかった。村上春樹のことなんかも全然知らない。
こんなにも好き勝手に言いたいことを言ってもいいんだ、というのが最初の感想だった。
当時の私には、もっと自由に、なんでも好きにやればいい、というメッセージに聞こえた。
この本を読んでから、大きく人間が変わった。
〈自由〉になったのだ。
そういう意味では、本の存在はやっぱり大きい。
またこの本の巻末のエイミー(山田詠美さん)の解説にもヤられた(読んでみたらわかる!)。
次に、『ファザーファッカー』を読んだ。
あんまり覚えていないが、これもまた強烈な内容だったように思う。こういう世界もあるんだ、と視野が広がったのを覚えている。
特にその内容に引くことはなく、すんなり物語に入れた。そういう「素質」もあったのだろう。
おそらくだが、学生時代に、漠然と色々なことを考え、思考を巡らせていたものの奥底にこの二冊は触れたんだと思う。
それらを読むことは私のどこかで眠っていたものを呼び覚ましてくれるような体験だった。
高校までは、国語の教科書に載る『こころ』や『羅生門』、『山月記』などを授業で読む程度の私にとって、友人からの勧めとはいえ、ちゃんと自ら選び出合った、初めての本だった。
思えば、『すべての男は消耗品である』を読み、もの書きになりたい、こういう文章を書きたいと思ったものだ。
思い違いだったかもしれないが、自分の考えていることを素直に書いたとしても、「文学」として昇華されることもあるんだ、と知った。
私にとっての本との出合い。
今考えると、やっぱり私にとって本というのは、大変貴重なものなのかもしれない。