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きぼうの味 【ショートショート】

「希望の味って、どんなのか知ってる?」

答えられずにいると、瑞月さんは乱暴に唇を重ねた。瑞月さんと重ねた唇の隙間から煙が流れ出し、俺は思いっきりむせる。瑞月さんは口から煙を出しながら笑い、煙草のパッケージを見せてくれた。
くしゃくしゃの箱に『HOPE』と書かれている。

「もしかして初めて?」
「キスは彼女と一回だけ」
「いや、煙草」
「ああ、それはまあ」
「記念にあげるよ」

大学に入って、初めての彼女が出来た。クラスの飲み会で「どの子がタイプか」という話題になり、特に誰も好きでは無かったので、とりあえず友達が多くて性格の良さそうな女子の名前を言った。すると「森岡が希美子を好きらしい」という噂が広まり、気が付けば希美子の友人達に見守られる中、俺は考えることを放棄して、義務的に「好きです」と告白していた。

最初はぱっとしなかった希美子だったが、付き合い始めてからどんどん綺麗になり、男性にモテ始めた。今日は誰々に告白された、バイト先の先輩にデートに誘われた……などと希美子は嬉しそうに報告してくるようになった。その度に妬いているふりをすると、「森岡君も嫉妬とかするんだね」と希美子はきゃっきゃっと喜んだ。

瑞月さんは、俺や希美子と同じ大学に通っている七回生だ。
本人曰く「勉強が超楽しくてさー、7年も居座っちゃった」とのことだったが、授業に出ている気配はなかった。はちきれんばかりのみずみずしい肌を誇る希美子と違って、瑞月さんは常に不健康そうで、肌はくすんでいた。しかし長い黒髪は美しく、目は綺麗な奥二重をしていた。

おかしなことに、瑞月さんとは交番で出会った。
拾った財布を届けに俺が交番を訪れると、瑞月さんは何らかの理由で事情聴取を受けていた。警官と瑞月さんの激しい口論に、俺は思わず二人に視線を送る。

「路上で一体何の商売をしてたんだ!」
「だーかーら、人の愚痴聞いて、お金貰ってただけだって」
「身分証明書出して」
「部屋に忘れて来たって言ってんじゃん。頑固じじい」
「なんだと!?」

ちらちら気にしていると、瑞月さんと目が合った。
そうだ、この時に、綺麗な目だなあと思ったんだった。みとれていると瑞月さんに呼ばれた。

「君、名前は?」
「え?……森岡ですけど」
「アパートの住所教えるから、学生証取ってきて」
「はあ」

瑞月さんのアパートは、大学から歩いて5分の場所にあり、つまり俺のアパートの目と鼻の先にあった。交番での出会いをきっかけに、瑞月さんのアパートに出入りするようになった。瑞月さんの部屋には、宇宙人だとか終末論だとかが書かれた怪しい雑誌がたくさんあった。
台所で、瑞月さんは手でフルーツを適当にむしりとり、蜂蜜と一緒に乱暴にミキサーに放り混んでフルーツジュースを作っていた。

「どうして路上で愚痴を聞こうと思ったんですか」
「だってさー、世の中希望も何もないじゃん?良くしたいって思ったんだよねー」
「他人の愚痴を聞いたところで、何も変わりませんよ」
「でもさ、その人の中では何かが変わるかもしれないでしょー」
「どうかな」
「はいどうぞ」

俺の目の前に、ワイングラスに入ったジュースが置かれる。あまり美味しそうではなかった。

「いただきます」
「森岡はどうなのよ」
「何がですか?」

俺はグラスに口を付けてみる。意外と美味しくて、そのままごくごくと飲む。

「愚痴。聞いてあげるよ」
「……ああ。彼女がいるんですけど、可愛くていい子なんですけど、一緒にいて苛々するんです」
「あはは、何それ」
「こんな調子だと、一生誰かと恋人になれないかもしれないって、最近思うんですよね」
「なるほどねー。うん分かった。君みたいなタイプは、まずは愛するフリから始めたらどうかな」
「フリ?」
「そうそう。無理矢理相手の好きになれそうな部分を見つけるんだよ」
「うーん、出来そうにないですね」
「じゃあ希望をあげよう」
「え?」
「希望の味って、どんなのか知ってる?」

気が付けば瑞月さんは大学を卒業し、アパートからいなくなっていた。あれから何度か路上で愚痴聞きをやっていたと人づてに聞いたが、俺は一度も遭遇していない。

そんな俺にも変化が訪れた。希美子の事を、少しずつ、本当に好きになり始めたのだ。いっとき派手だった希美子の外見は、彼女の本来の性格に合った素朴なものに落ち着いていた。彼女が綺麗になろうと努力すること、いつも笑顔でいること。それは多少なりとも俺のためである事に、俺は気付き始めていた。

ある日、俺の部屋にやって来た希美子が、引き出しを開けて「ねえ」と呼び掛けた。

「煙草吸う人だっけ?」
「え?」

希美子の手には『HOPE』と書かれた煙草が握られていた。

「……捨てていいよ。もう必要ないから」
「そ? 分かった」

希美子が『HOPE』をゴミ箱に捨てる。

あの日あなたから受け取った『希望』。
ねえ瑞月さん。今もあなたはどこかで、誰かに希望を分け与えているんでしょうか。