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ある怠惰な女の憤恋 【ショートショート】

いやーまいった。怖い怖い。自分が怖い。
早坂美果は、新宿の紀伊国屋書店のトイレで自分に絶望していた。
今日は確か……徹夜で書き上げた原稿を持って家を出て、駅前の喫茶店で編集者の野村さんと打ち合せをし、最後に新刊を見ようと紀伊国屋書店に立ち寄ったのだ。もう15時だ。

今の今まで、ずっとブラジャーを付けていなかったなんて。

半袖だった。美果はカバンで胸を押さえながらユニクロへ走った。今すぐ下着を買わなければ。この変態女!死ね!恥を知れ!と脳内で自分を罵倒する。

「いやーあはは。僕もあれ?って思ったんですよ。でもそういうファッションかなって思って。ほら、海外セレブとかノーブラだし」
「言って下さいよおおお」

後日野村さんに電話をすると、笑いながらあの日の事をいじられた。

「私もうお嫁に行けないです」
「大袈裟だな~僕に見られたところで減るもんじゃないでしょ~」
「めっちゃ減りますよ!」
「徹夜で疲れてたんですよ。それに早坂さんって、おっちょこちょいな所あるし」
「もう自分が信じられない…」
「あ、すみません。早坂さんと電話してたら編集長に働けって怒られたんで切りますね。原稿お待ちしてまーす」
「あー!野村さん!」

野村さんに電話を切られてしまい、美果はしょぼんと携帯を置いた。ああ…きっと彼の恋愛対象から外れただろう。いや、そもそも最初から圏外か。あー控えめに言って死にたい。

昼過ぎに、綺麗にめかし込んだ麻美が部屋にやって来た。美果の大学時代の友人だ。

「どーよ。書いてる?」
「それどころじゃない」
「は?」

麻美がパソコンを覗くと、Youtubeで「圏外女子が本命彼女になるコツ」という動画が流れていた。痩せろ、メイクを磨け、相手から距離を置け、服の種類を変えろ、等とアドバイスしている。麻美は袋からペットボトルを取り出し、美果の頭をポカっと叩く。

「いや書けよ。締切今日でしょ」
「野村さ~ん!ずっと好きだったんだぜ~!」
「てかその人、結婚してたりしないの?」
「聞いてない……」
「結婚しててもおかしくない歳でしょ」
「じゃあ聞いてみる」
「え?今?」
「うん」
「いや謎の行動力。動画でも距離を置けって言ってたじゃん」
「いや、聞く」

美果は携帯を取り出し、野村さんに電話をかける。

「あれ~また早坂さん?どうしました?」
「あ、あの~、ちょっと今書いてる原稿の参考にしたいんですが…」
「はい、なんです?」
「野村さん29歳ですよね。け、結婚とかしてるのかなって…」
「してますね~」
「……」
「早坂さん?もしもし?」
「20代男性が結婚しているかの調査でしたご協力感謝します」
「え?ちょっと早坂さん?」
「では」

通話を切ると、美果は携帯を放り投げた。

「最初から一人茶番かよ!」
「コントはいいから早く書けよ。もしかして、今日舞台観にいく約束忘れてない?」
「……忘れてた。何で麻美が家に来たんだろうって思ってた」
「おい」
「書きます」

美果が集中モードに入りガツガツ記事を書いていると、麻美はおもむろに衣装棚を開け、物色を始める。中から、クリーニングに出したままの状態でかかっていた高そうなウールのワンピースを取り出す。

「美果、こんなの持ってたんだ」
「一目惚れで買ったんだけどね。あっしには似合わなくて全然着てない」
「ふうん」
「よし、出来た!」

美果はパソコンを閉じてうーんと背伸びをすると、鏡でさっと髪型を整え腰を上げる。

「麻美お待たせ。行こうか」
「このワンピース着替えなよ」
「え?いやあ……」
「似合うようにメイクしてあげるから」

美果を犬のようにソファーに座らせると、麻美はワンピースと見比べながらメイク道具を選んでいく。されるがままの美果。

「メイクしたところで似合わんよ…」
「失恋した時は自己肯定感が一気に下がるからね。やり過ぎなくらいオシャレして出かけるに限るよ」
「麻美……」

麻美によって淑女へと生まれ変わった美果。鏡に映る自分を見て声を漏らす。

「凄いよ麻美!私のスタイリストになって欲しい!」
「いい時間だ。行くよ」

二人は部屋を出て、駅に向かって歩いていると、美果の携帯が振動する。画面には出版社の番号。美果は首を傾げながら、電話に出る。

「もしもし?」
「早坂さん?すみません何度も。野村です」
「ど、どうしました!?」
「さっきの結婚の話なんですけど、あれ、嘘です」
「は?」
「いや~すみません。いじると早坂さん、いつも反応面白いから、つい」
「いや、ついって…」
「じゃ、そういう事なんで。原稿頑張って下さい」
「え!ちょっと野村さん!?」

電話が切れ、美果はしばらく放心状態で道路に立ち尽くす。しかし突然、うおおおおと奇声を上げて走り出した。

「美果!?」
「いける!まだまだいける!!」

ワンピースをはためかせて走って行く美果。麻美は「バカ!化粧が崩れる!」と叫びながら、後を追いかけて行く。


二人分のヒールがカツカツ音をたてながら、住宅街を駆け抜けて行った。