くんくん 【ショートショート】
病院の中にあるレストランって行ったことある?あそこって不思議だよね。何を食べても、何を飲んでも、ぜーんぶおじいちゃんの病室と同じ匂いがする。僕はいつもカキフライ定食かカレーライスを注文するんだけど、どんなに美味しそうに見えてもやっぱり病室の匂いがするんだよね。正確に言うと、アルコールと薬の混じったような匂い。とにかく「病院」の匂いがそこら中にこびりついて取れないんだ。あれってなんなんだろうね。
店の蛍光灯は何個か壊れていて、ソファーは座り心地が悪くて、テーブルにはボロボロのメニューが置いてあるんだけど、店の名前が「花鳥風月」っていうの。全然違うじゃんって毎回思う。
「陽一郎、もっと美味しそうに食え」
「じいちゃん食べないの?」
「ははは、こんな不味い飯は食えん」
「……」
病室のじいちゃんは、身体中に針を刺されて身動きが取れないんだけど、たまにこうしてレストランに来てくれる。じいちゃんは好き嫌いが多いから全然食べなくて、代わりに目の前でご飯を食べる僕を、いつも嬉しそうに眺めていた。
「陽一郎、うまいか」
「うん」
「それは良かった。いつも病院の中で悪いな」
「別にいいよ」
少しふらつくじいちゃんを支えながら僕は病室へ戻った。看護師さんがやって来て「河野さん、お孫さん来て嬉しいねえ」と笑いながら身体にブスブスと針を射した。じいちゃんは特に表情を変えず、僕に「緑茶、買ってきて」とお金を渡した。
買ったペットボトルを持って歩いていると、担当医の戸田先生とすれ違った。随分と若く見える男の人で、この人が本当にじいちゃんを良くできるのかと僕は常日頃疑問を抱いている。戸田先生は少ししゃがむと、僕と目線を合わせた。
「こんにちは。いつもお見舞いえらいね」
「あの」
「うん?」
「じいちゃんは、良くなるんですか」
「うん。クリスマスまでには良くなるよ」
「そうですか」
僕は礼儀正しく頭を下げて、病室へ戻った。
そうこうしているうちに、クリスマスがやって来た。
僕は花鳥風月でチョコレートケーキを頼み、何も食べないじいちゃんとクリスマスを祝った。クリスマスに何が欲しいかと聞かれ、僕はニンテンドースイッチと答えた。じいちゃんは「スイッチにも色々種類があるんだな」と首を傾げた。
じいちゃんを病室まで見送った帰り、また戸田先生とすれ違った。戸田先生はしゃがんで目線を合わせて、「偉いね-」と笑った。
「もうクリスマスなんですけど」
「え?」
「おじいちゃん、いつ退院するんですか」
「ちょっと長引いててね。来年の春くらいになるかな」
「そうですか」
やはりうさんくさい男だ、と僕は思った。
そして春になった。
じいちゃんは病室から出られなくなったので、僕はクリスマスにもらったニンテンドースイッチで遊んでいた。管は、ついにじいちゃんの口や鼻にも通るようになった。
「じいちゃん、まだ喋れないの?」
「……」
「あの戸田先生、何かうさんくさいよね」
「……」
「もうすぐ新学期だよ」
「……」
じいちゃんが喋らないので、僕は仕方なくゲームを続けた。すると戸田先生がじいちゃんの様子を見にやって来た。僕の身長は半年でぐんと伸び、先生はもうしゃがむことはなかった。
「陽一郎君が来てるから、今日は嬉しいねえ河野さん」
「……」
「午後、また診にきますね」
「……」
出て行く戸田先生を、僕は追いかけた。
嘘つき。じいちゃんはちっともよくならないじゃないか。
戸田先生は僕に気付くと、観念したように立ち止まった。
「じいちゃん、退院しないんですか」
「……ごめんね。なるべく陽一郎君には最後まで言わないでおこうって」
「……」
「河野さん、今すごく頑張ってるから。辛いだろうけど見守ってあげてね」
「はい」
病室に戻ると、僕はじいちゃんの身体に顔を寄せて、くんくんと匂いをかいだ。僕の服に、髪に、そして僕の身体中に、じいちゃんの匂いが染みついていた。薬とアルコールと、おしっこのような匂い、そして死の匂い。
そしてもうすぐ、この匂いはこの世から消えてしまう。
僕はそれを惜しむように、じいちゃんの服に鼻がつぶれるほどくっつけて、大事に大事に、記憶の中へとしまった。