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夢の実現 カナダ

私は小学生の頃から将来は「海外に住むという」夢を持っていた。
高校は2週間のカナダ留学がある場所を選び、高校卒業から大学入学までの春休みには再度、カナダを訪れていた。
当時の私は見るもの全てに興奮し道路の縁石でさえも感動していた。
帰国する度にまたカナダに行きたい!絶対に行ってやる!と心に誓い
家のリビングにはカナダ国旗を掲げていた。

そして大学を卒業し3年間勤めた会社を退職。
ついに自らの夢を叶えカナダに来た。
しかし私の感情は以前のような興奮はなくむしろ「何も感じない」
めちゃくちゃ冷め切っている。

当時、一番感動していたのはカナダに暮らす人々が日本人よりも人生を楽しんでいるように見えた点であった。

日本人特有のメンタリティなのかもしれないが、とても真面目でいつも何かに縛られているように感じていた。
事実、私の通っていた高校は偏差値も低いため、校則が厳しく少しでもミスを犯すとすぐにペナルティが科されるシステムであった。学校生活を楽しむ余裕は当然なく、常に監視と罰則に怯えながら日々を過ごしていた。
しかしそれは、私の高校だけでなく両親や先生などの身近にいる大人、日本社会全体も同じように見えていた。
満員電車に乗っている大人たちや、仕事を終え帰宅している人々の表情はとても疲れ切れており、精神的に余裕がなく電車の中はどこかこう曇っているような重たい閉塞感があった。

きっとそれは、大人、社会ではこうあるべき、こうでなければならないと言った固定概念によるストレスから来ているんじゃないかと高校生ながらに考えていた。

また、私の地元はとても田舎で外国人はまず見ることはなかった。
移民国家であるカナダは多様な人種が集まっている。
そのような環境に憧れを抱いていた。
しかし、実際に来たところ「まあ、こんなもんだよな」
北米発のおしゃれな大手コーヒーチェーンは過大評価されているし
白人も黒人もアジア人も人種なんてどうでもいいなとしか思わない。

カナダに来るには少し大人になりすぎてしまったのかもしれない。
美味しいご飯を食べたり、自分でコーヒーを淹れたり、友人と一緒にサウナに入ったりなど、そういった何気ない日常に価値を見出した私には、異国や異文化、視覚的要素や外的な要因から得る満足感には限界が来たのだろう。
別に日本に帰りたい、他の場所に行きたいというわけではなく、これはただの心境を綴っただけで、大人になった今だから見えるカナダがある。
これからカナダで生活していく中で感じたこと、新たな発見を記録していきたい。


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