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意識、クオリア、哲学的ゾンビ、随伴現象説

ポンセです。

以前、動画で思考実験について話しました。ちなみに再生数は、キングオブコメディの彼の鼻筋ぐらい低いです。今野、そこに愛はあったんか?

そこで「哲学的ゾンビ」について紹介したんですが、それについてちょっと深掘りしたいと思います。

哲学的ゾンビとは?

とその前に、動画見てない人のために「哲学的ゾンビ」を軽くおさらい。

哲学的ゾンビとは、「外面は人間の体裁を保っているが、内面的には意識を持たない存在」のこと。

例えば哲学的ゾンビを殴ったとしたら「痛い!」というでしょう。哲学的ゾンビと江戸前寿司を食ったら、「長崎じゃあこのレベルの寿司は1000円で食べれるね。」と謎のマウントを取ってくるかもしれません。

しかしそれらは全て「そういうふうにプログラムされたから」なのです。

哲学的ゾンビは「痛い」なんて感じません。ただ殴られたから、プログラムに沿って「痛い」と叫んだだけ。

しかし外見的・物質的には人間と全く同じなので、隣人が哲学的ゾンビだろうが人間だろうが、私たちには判別できないんです。

と、ここまでが「哲学的ゾンビ」の概要。要は、哲学的ゾンビって我々と違って「意識や感覚」を持っていないんです。

意識とは「主体的感覚」である

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じゃあ「意識や感覚」ってなんぞや、と。

例えばリンゴをみて「美味しそう」「赤いなあ」なんて感じるでしょう。道端で転んだら「痛い」と感じるでしょう。

そういった主体的感覚が「意識や感覚」。哲学だか脳科学だかの世界では、これを「クオリア」といいます。かっこいいね。そんで哲学的ゾンビにはこれがない。

人間でいう「脳」にあたる器官が「リンゴ」という物質を感知し、「色は赤」「美味しそう」「形は丸い」などの情報を得ます。

しかし人間は、他人の「主体的体験」を知ることなんてできません。

故に「コイツ、実は哲学的ゾンビなんじゃね?」なんて疑ったところで、そもそも不毛な議論なんです。

そもそも自分に「クオリア」はあるのか

じゃあ、そもそも自分に「クオリア」はあるのか?

「いやいや!!自分のことは自分でわかるよ!私にはちゃーんと意識があります!」

って、思いました?ほんとにそうですか??

思うに、「クオリア」ってのは極めて不確実な存在です。それはおそらく現代を生きるほとんどの人が物理主義の立場を取っているから。

物理主義ってのはつまり、「この世の全ては物理法則に従っている」ってことです。

動画でも話しましたが、野球選手がボールを打ったあと、どれだけ「伸びろー!!」と念じたところで打球の行方は変わりません。まぁ当たり前ですね。

そして、物理主義の立場では「主体的体験」ってのは、「外部からの電気信号が脳という器官に伝わった結果」ってことです。

例えば「赤」という色をあなたの目が捉えたとします。するとその情報が信号となって脳まで伝わり、あなたは「赤いのが見えた」と感じるわけです。

その過程のどこかをいじくれば、「赤」を見たはずのあなたに「青いのが見えた」と感じさせることもできるでしょう。

つまり「主体的体験」や「クオリア」ってのは、脳という物理的な機械に依存しているってことです。物理現象のついでに「クオリア」が生まれる、と。

部活のあとに水を飲みたくなったのは、「体内の水分が枯渇した」という「物理的状態」に付随して生まれた感情。クオリアはいつだって後付けなんです。

となると、クオリアって必要なんでしょうか?だって、機械的に脳みそや四肢、その他すべての器官が動くのなら、主体的体験なんてなくても生活は成立しちゃうもん。

世界中の全ての人間が哲学的ゾンビになっても、世界は回り続けます。昨日までとなーんにも変わらずね。

つまり生物学的に「クオリア」なんてものはまっったく不要なんです。だって、物理的状態に付随して生まれるただの「現象」なんだから。


…と、これこそが「随伴現象説」。

しょせん脳なんて細胞の集まり

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ところで、いってしまえば脳とは、細胞の集まりです。突き詰めるとめっちゃたくさんの「原子・分子」の集合体といえます。

例えば無数にある脳細胞のうちひとつに注目してみると、それは一定の法則に従って運動しているだけでしょう。んで、その集合体が「脳」。

つまり、機械的なパーツが集まってできたロボットと何ら変わりません。

では、なぜそこに「クオリア」なるものが生まれたのか。

これについて、納得できる理由を答えられる人はいません。(いるのかもしれませんが、私は知りません)

つまり、「この世界はそういうものなのだ」「神がそういうように世界をつくったのだ」としか言えないわけです。この先は宗教とかの話になりそうなので、しません。

「AとBが混ざったら、化学反応が起きてCが発生する」みたいな「法則っぽいもの」というしかないのです。

だから「世界はそういうものなのだ」ってのは、正しいっちゃ正しい。「神がそういうように世界をつくったのだ」ってのも、正しいっちゃ正しい。

クオリアとかいう「未知の力」

しかしこんな結論で納得できる人はあまりいないでしょう。私だってそうです。

ですが残念ながら、我々が「物理主義」という立場を取る限り、「クオリア」は脳に影響を与えない、何の意味もないものということは変わりません。「クオリア」が非物質的な存在だからです。

しかし、物理主義という立場を捨て去るならどうとでも説明できます。それはしばしば「スピリチュアル」や「オカルト」、ともすれば「超能力」なんて言い方もされるでしょう。

あなたが野球選手なら、ピッチャーフライだと思った打球でも、念じればバックスクリーンに届くかもしれません。

これはもちろん、現代の科学の常識を覆すものです。物理学でいう「重力」「電磁気力」「弱い力」「強い力」という4つの力の相互作用では説明できなくなってしまう。

んでもって、そこに未知の「第5の力」が加わることになる。

簡単に言いますけど、これってかなり大変なことです。だって、今まで物質的なもので世の中の全ての事象を説明できたのに、「クオリア」とかいう異質な新人のせいでその理屈が崩れちゃうんですから。

だからこそ科学者たちは「随伴現象説」を唱えるわけです。

「クオリアとかいう非物質的なものが、物理現象に影響を与えるわけがありません!認めないもんねーだ!!宇宙の創造主がそういうシステムにしただけだもん!!」

って、顔を真っ赤にして叫ぶしかないんです。

随伴現象説ってのは、うがった見方をすれば科学者がクオリアに対して突きつけた三行半みたいなものなんですね。

まとめ(きれませんでした)

随伴現象説について、動画から深掘りするとこんな感じ。これでもけっこうざっとです。

ただでさえ「意識」とか「感覚」とか「主体的体験」とかいう抽象的な存在を語る分野なので、わかりづらかったらすみません。

ところで、随伴現象説が「脳の機能に付随するのがクオリア」でしたが、それに似た「受動意識仮説」というものもあります。

これもちょっと話したいのですが、もう疲れたので今度にします。

夢でまたお会いしましょう。アディオス。

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