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らしさとはなに?
ツーブロック論争が議会に取り上げられるようになった。
以前から「私自身もなぜだめなのか」について、いろいろな人と議論してきたが、納得はしていただけるが、変化はないというのが実状だった。
ツーブロック論争について
都議員が都立高校の校則に、「ツーブロック禁止」というものがあり、納得できないから教育長に質問し、その答えが「事故や事件に遭いやすい」という答えだった。「データや根拠がない」から納得できない。というものをTwitterにあげて、話題になった。
このことについて、私は、
議会で論議することか?
と感じた。
校則について、議会で質問して論議し、条例にでもするのだろうか。
質問に対しては同じ意見だ。根拠があるかどうかは別にして、なぜそこで「事故に遭ういやすい」が出てくるのだ。
世の中の流れからして、それを禁止することにこだわっている考え方の変化のスピード感のなさを実感する。
いろいろな人と議論したり、校則の理由を聞いたりすると、「中学生らしい」とか、「学生らしい」とかいう理由だ。
これもよくわからない。
「学生らしさ」ってなに?
校則について議論するときによく使われる「学生らしさ」。
これにも疑問がある。
学生らしさって人それぞれでは?
見た目で学生らしさを決めるのであれば、全員が
「勉造さんじゃないとダメじゃん。」
という私の考えも人それぞれ。
学校の中では、「学生らしさ」の基準や、「当たり前」の基準が、その学校で声の大きい先生になってしまいがちだ。
それを決めるのであれば、そもそも「学生らしさ」ってなにという、ことを本気で考えないといけないと思う。
その時に、決めつけや、自分が置かれていた状況を根拠にするのではなく、「学びに向かう者」とはどういうものかということを時代に沿って議論する必要があると思う。
「先生らしさ」ってなに?
生徒に、校則を守らせるのであれば、先生も守らないといけない。
そう感じるのだが、たまに、
生徒と同じ基準の髪型で、生徒と同じように制服を着る。という少しゆがんでいる意見が出るが。
そうなると、先生らしい基準はどこになるのか。
ドラえもんに出てくる「せんじょうえいいちろう先生」(ツーブロック)
ちびまる子ちゃんにでてくる「戸川先生」(特定の生徒を家に招待する)
のように、全員スーツじゃないといけない。
冗談です。
生徒と先生は違う。
でも、「人として守らなければいけないことは守ろうよ」と思う。
挨拶をする。とか、学年の教師を無視しない。とか、自分が原因なのに棚に上げて、人のせいにして多くの人の前で叱責するとか。(愚痴がまた出ました。)パワハラですよ。
私は初任から10年ぐらいはジャージで過ごしていた。
でも、自分のためにシュッとした格好に変えた。
生徒の名前をきちんと苗字とさん。またはくん。をつけて呼ぶ。
授業の説明は丁寧語でする。
これは、一つ自分の中での先生らしさの演出なのかもしれない。
他人がこうあるべきという考えではないが、私の先生らしさの一端でもある。
校則に対する私の考え方
校則は何とためにあるのか。
「そのコミュニティーの中でみんなが過ごしやすくするためのルール」であると考えている。
かつては、「社会に出た時にルールを守れるように与えられるもの」だと考えていたが、
変化の激しい社会において、状況が変われば、ルールも変わっていかなければならず、ルールは議論や話し合いによって変えることができることを学んでもらいたいとも思っている。
だから、今、生徒が運動しても大人に大人の都合によってつぶされる校則やルールはやりきれない。
「生徒に任せれば、めちゃくちゃになる」と考えている人は、自分がめちゃくちゃになるように育てているということを言っているのだろうか?
信頼して任せれば、時間がかかるだろうが、自分たちで学んでいく。
各学校で、行動や在り方についてのルールは教育目標に対してあったほうが良いと思うが、見た目や髪型については、必要なのかが疑問だ。
私は、髪型や見た目に関しては本人の自由で良いと思っている。
「自由」にすると「なんでもあり」になるから駄目だという人は、
「自由」の考え方が浅いように思う。
私の大好きな苫野一徳先生がおっしゃっているように、
「自由の相互承認」の感度を高めることが学校の目的
だと考えると、
自分が「自由」だとおもってやった髪型が、周りの人を不快に思わせたり、自分が損をするようならば、自分の判断で変えていく。この経験を学ぶ機会を失わせているのではないだろうか。
もちろん、「自由」だから、裸同然のような格好で来たら、
「それは、不快だよ」と私の意見を本人には伝えると思う。
つまり
ツーブロックを議会で討論しているという情報を見たとき、
「なぜ、議会で?学校で議論できないの?」という反面、「学校では、つぶされるから、とうとう議会にまで行ったか。よしよし」とおいう思いもあった。
学校だけで通用する校則やルールが多く、「ルールを守ること」を教え込むことだけに使われているものは、生徒との議論のもと、変えていく必要があると考えている。
「ルールを守ること」は生徒との議論のもと決めたことを守ることに使えば、過ごしやすく、ルールを守ることができるようになると思う。
「校則とはなぜあるのか」から考え直しませんか?