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古層の神々と境界の話

先月諏訪大社のドキュメンタリー映画「鹿の国」を観にいきました。

信州諏訪、かつて縄文文化の拠点であったこの地には古くからミシャグジ信仰が根付いています。ミシャグジはアニミズム的な要素を持つ独特の存在として知られており、諏訪大社の数々の祭祀の中には一万年に及びこの地で連綿と受け継がれてきたその信仰の片鱗を垣間見ることができます。

ご神事の一つである御頭祭では75頭の鹿の首が捧げられ、鹿と諏訪大社には深い関係があることから多面的な様相をみせるミシャグジ信仰の中でもこの作品は特に鹿という存在を軸として描かれたものでした。

七十五頭の鹿の頭は現在では剥製が用いられていますが、映画の中では実際に鹿を狩猟するシーンも包み隠すことなくリアルに映し出されています。


鹿というキーワードから引き出される記憶があって、昔車で諏訪へと向かう途中、もう少しで諏訪に着く辺りの谷あいで運転中に突然一頭の雄鹿が道路脇から目の前に現れたことがあります。

咄嗟にブレーキを踏んで事なきを得たのですが、青空に大きく伸びる二つの角を微動だにさせずに道路の真ん中から凛とこちらを見据えるその鹿はまるで鹿の王のように美しく、自然の片鱗そのものが立ち現れたかのような悠々とした美しさに目を奪われたのです。

その後鹿は何ごともなかったかのように悠然と道を横切るとあっという間に山の中へ消えていったのですが、今でもその美しい姿は脳裏に焼き付いています。


鹿は確かに私をみつめていた。   

その記憶と共に浮かんだものを取り留めもなく書いてみようと思いました。

蘇るのは人の気配のない山に分け入っているうちに徐々に研ぎ澄まされるあの感覚。

かつて厳しい自然と共に暮らすエスキモー達はアザラシを捕えて食し、それを自らの血肉とすることで生命を繋いできましたが、彼らは自分達が年を重ねて徐々に弱り死を悟ると家を出て自ら流氷に乗り、今度は自分が命を与える側として自然の中へ還ることを喜びとしたという話を聞いたことがあります。

また自然の中で獲物を狙う猟師の中には自らもまた動物に殺されるのも道理であるという感覚を持っている人も案外多いのだという話を聞き、私は狩りをしたことはありませんが、
猟師が向けた銃口の先に佇む鹿

その大きく美しい目と視線を交わす瞬間、そこには鹿と自分との区別がつかなくなるような感覚、まるで鹿と自分の意識が交錯するような、鹿と自分の境界が曖昧になるような意識がそこにありはしないだろうか、

自分の生のすぐ裏側にある死と紙一重の場所で真正面から死に向き合う瞬間、その一瞬の中にはもしかしたら永遠が立ち現れるのではなかろうかという予感がするのです。

猟師 と 漁師 と 量子

自然の中でいのちと向き合う。

生を支える裏側の死を敬う。

生が死を喰らえば死もまた生を喰らう。

生み出された側は今度は生み出す側にまわる。

つくりだされたものが舞台を降りれば今度はつくりだす側へと回る。

そうやっていのちは永遠に循環してゆく。


一瞬の中の永遠がミシャグジの世界であり、そこは言葉もなければ表も裏も時間もない世界。
精霊界と人間界の境界を繋ぐまれびとのように、本来人は皆その境界が見える存在だったのではないでしょうか。

昔の猟師は山へ入る時には山言葉を使い、神聖な山では不浄なものを忌むため里の言葉とはっきりと区別して使われました。

言葉が違うということは意識の違いがあるということで、そこには物理的な境界ではなく明らかに意識の境界があったはずなのです。

集落と集落の境には道祖神が祀られ、辻には祠が置かれました。山の神であるサ神もおそらく境界を示す意味もあるのではないでしょうか。
昔の人々は様々な意識の境界を感じ取っていたように思います。

意識の境界を感じ取ることができるということは空間の多重性を感じ取っていたということです。

空間は決して何もないがらんどうではなく次元はふくよかな蕾のように幾重にも重なっており、宇宙のダイナミックな脈動が渦巻く世界。

空間の差異が人間に開かれるとき、人々は時空の檻から解き放たれる。


古層の神々はわたしたちが再びその空間を取り戻すことを待ち望んでいてくれているのかも知れません。


2025年の大峠の初めにこの映画が公開されたことをとても意味深く感じます。