【いま、なんどきだい第一部:私と奴と浅草の怪しきこと】
<四>
堂々巡りを堂々巡りと判ったうえで、敢えて突き進んでいるのだから、私もよくよく頑固な男だと思う。
あの奇妙な日々を振り返りその本質について考えるにつけ、どんなに時が経とうとも奴にだけは負けたくない、のだと思う。負けず嫌いを自認してはいないが。
常に奴の背中を見て歩き、奴を振り向かせること叶わず、最期は奴流の下手糞な気づかいに阻まれ、私は、奴を、看取ることすら許されなかった。
だが。私の骨身に染み付いたあの男の残滓がもたらすもの、その重さは相当なものだった。
奴との思い出が無い場所など、どこにも無い。何処を覗き込んでも、物陰や壁紙の模様、柱に椅子にカウンターにと焼き付き、私を触媒として浮かび上がってくる。
この街で……奴のにおい、気配、声、それら全ての残響が埋め尽くす、この浅草という街で、私は、死を前にらしくもなく怖気づき、他人行儀のまま勝手に逝った奴に一矢報いたかっただけだ。
それすら永久に叶わないのを知っていて、認めたくはなかった。
それはそうだ!
完璧な意趣返しにこだわるあまり最初は、奴と通った、奴に紹介された、奴の気に入りの店ばかりを辿った。
しかしそれは敵の術中にまんまと嵌りにいくようなものだと悟った後は、奴が知らない、奴の目の届き切っていなかった場所を探した……が、奴があの世で地団駄踏んで悔しがるような、未開拓のイイ感じ場所など、探すだけ無駄なことだと無意識下では判っていた。
流行病で人の流れが途切れ、その間にひっそり畳まれた店の後に新しい店主と料理と常連客が出入りしていたとしても、私と奴がこぞって頷き、野暮を承知で長ッ尻してしまうような席は、ここまで見当たらなかった。
私一人、暖簾を潜ったところで、如何ほど心弾むか?
「店の前に立って、良い佇まいだとストンと思えるところは大抵その通りだ」
「違いねェ。広い通りにまで食い物のいい匂いを漂わせてるのは、ただの良い店だもんなあ。俺らが愛してるのは、そこはかとなく色香を漂わせた、妙に良い店なのヨ」
酔った勢いの戯言は、際限なく溢れ出て、それは楽しかった。
ならば、と。
元気になったら行ってみたい店があると奴が言えば、私も連れていきたい店があるからとっとと退院しろと受けて立つのが奴の晩年の日常だった。
想像力だけは逞しかった病床で幾つか名が上がった店のうちのひとつを、ヒダル神もどきが憑りつくのを諦めた空っぽの胃袋をなだめすかして訪ねてみた。
「たしか、この辺りからはそう遠くないはずだ」
おぼろな記憶の中の地図を頼りに、通り二本ほどを渡って辿り着くと、白い工事用の幕に囲われた一画に『テナントビル建設予定』の告知看板があって愕然とした。
が、しかし。ここで倒れてしまっては、私が通してきた意地にそれこそ何の意味もなくなってしまう。
そこから一区画も離れてない場所にあった、奴の見舞い帰りに立ち寄ったそばがきの美味い蕎麦屋は、シャッターに達筆な字で『移転のお知らせ』を一枚張ったきり、ショーケースのなかの色褪せた食品サンプルが店主の代わりにひっそりと私を出迎えていた。移転先は……長野県。地下鉄に乗って二、三駅なら、今からでも押しかけるのはやぶさかでないと思っていたのに。当てが外れるなんて、そんな生易しい表現では掬い切れない絶望感だった。
「二度あることは三度あるとはいうが、何も今でなくとも……」
途方に暮れるた私は、今度こそ行き場を見失い、耳だけは警戒を怠らずにへたり込んだ。
私が歩いた道順をそっくりそのまま、再び死の気配を纏った何かが辿っていて、そろそろ再び私を捉えんとする足音が聞こえてくるのではないかと、本気で身構えていた。
私と奴が出逢ったばかりの頃、私は進学を機に親元を離れ、奴は師匠から一人前と認められたばかりで、お互いに少々浮かれながらの春を謳歌していた。
時に私が学校や不慣れな土地での人間関係に悩んでいると、誰をも愛し誰からも慕われる自分には全く共感できぬと前置きをして、決まって言う長台詞があった。
「お前さんは、そういう星の元に産まれついてんのサ。風見鶏ってのは自分で風向きを変えられないだろう?風の吹くままに、流されるでもなく、あっちを向きこっちを向き……結局は屋根の上から一歩も動かねぇ。風を読むお前さんと、無鉄砲に風に乗っちまうオレと、だから二人で居るとなんとなく上手くいってるだろ?どっちが欠けても、残ったほうは必ず迷子になっちまうんだろうよ」
何度も聞いて、その度に馬鹿にするなィと立てついて。そうして、そんなことよりパーッとやろうぜ!と燥ぐ奴に腕を引かれて夜の浅草に繰り出していた。どっちかが欠ける日がくるなど、想像もしていなかった、輝かしくも苦々しい日々だ。
死が最接近した人は過去の出来事を、美しく駆け足で振り返るとは聞いていたが。
よりにもよって、思い出すのがそれか。と、妙に可笑しくて、泣けた。
そして、自身は流されるだけのように言っていた奴こそが『風向き』を自ら変える力と術を持っていたのだと、ようやく思い至った。
確かに私は、奴が奴らしくあるために、風向きを読み解くことはできた。風見鶏の喩えの通り、現状を変える力はない。奴はそれと知って、私から巧妙にその術を隠しているつもりになって、風見鶏にも広い世界の一端を垣間見せんとして風向きを変えていたのだ――ならば、一人ぼっちにされてしまったこの現世で袋小路に迷い込んだ風見鶏は、どのように風を読めばいい?
不意にクヒヒヒ……と。
首筋に薄ら哂う誰かの吐息がかかった。
気のせい、にしては生々しい。
しかし、私の背後は閉じたシャッターがあるきりだった。
全身の毛穴がキュと締まり、血の気が脳天から爪先へと駆け抜けて、体温が下がる。嗚呼、とうとう捉まったのか、と直感した。
――やっとわかったか?なら、とっとと観念しちまえヨ、兄弟。
思考の、一瞬の空隙を狙いすましていたのだろう、温度も感触も乏しい何者かが私の中に入り込んだ。ぎゆぅ、とやる気のない腹の虫が鳴いたが、いろいろ構ってやる暇はない。
「そういうふうに、できている、だと?フン、なるほど……だ、が、ちゃんちゃら、おかしい……ハァァァ、腹も減らぬ死人風情が、生きてる私をどうにかしようなど」
私の鼻先が、僅かな風を捉えた。常世の国へと誘う川風でも、死者を慰める線香の煙が乗っかったそれでも無い。
――オレは浅草って土地に愛されてんのサ。お前さんが浅草の街に居る限り、お前さんはオレの一部だし、街がオレの味方をしてくれる!
まったく、奴の言うとおりだ。
これまで、奴の言うことなど、八割以上は与太だと突っ返して来たが、ここまで……浅草という土地と、其処に住まう或いは一度でも縁づいた人を味方につけて、如何なる変容を遂げたとしても奴は私という生者を翻弄するのだから。
その目的が何かはわからない。が、いつもいつも、腹を空かしている時を抜け目なく見定め、一番ムカつく言葉と思い出の中の瞬間の表情を切り取って、見せつけ追い詰めてくる。
だからといって。私は端から、ハイソウデスカ、と白旗を揚げてやる気は棄てていた。
何度だって、しぶとく、抗い、生き続けることに躊躇は無かった。
あの世とこの世に精通している者たちは、こんな風に【為って】しまった奴のようなモノに、便宜上の名を付けている。おそらく――呪い、と。人より生じて、人に非ず。魂という形骸さえも腐り落ちて、もはや意思さえ持たぬ遺志だ。
奴が何を思い、如何なる術を用いて、私にとっての呪いに転じたのかは知らない。知りたくもない。
大方、奴のことだ、死してなお私の背中にべったり張り付いて美味い酒と食い物にありつきたいばかりに、こういうマジナイじみたことを健康体だった時から丹念に仕込んでいたに違いない。長い年月、私を街中に引きずりまわして、少しずつ、少しずつ……奴が腹に一物抱えているのを知らずにいたわけではないが、ここまで大それたことを考えているとは想像したことが無かった。何を抱えているにせよ、それはいずれ、奴のほうからいつか私だけに開陳してくれる秘儀の入った小箱程度のものだろうと、気持ちの何処かで高を括っていた。
奴を信じきれなかった私も悪いのだろう。反省はしないが。
しかし、それでもみっともなく言い訳を連ねるならば、私は頭の片隅で『ひょっとしたら』と、奴の全てを信じ賭けてみようとも思っていた。私も、奴の愛する【浅草】の一部であり、ひょっとしたら、その中でも最も愛すべき要素なのではないか――
ここまで読んだ君は、なんと馬鹿げた惚気と笑うだろうが、それが、それこそが、私の、私であるための、意地であり弱味でもあるのだろうよ。
私は、私を突き放すようにして一人格好いいつもりになって逝った奴、違うな、奴が為り下がった呪いとやらに負けるわけにはいかなかった。
一矢報いるなどと、贅沢なことはもはや考えるのは止した。
がっかりしつつ。半ば、やけっぱち。
何かと付きまとう呪いとその後ろに控えているのであろう常世の闇のにおいに慄きながらも、私は見知らぬ細い路地に入った。
道に迷ってもいい。見慣れた道がそれとは気付かず改変されるという憂き目を見ていても、生前の奴の望みが何であっても、こんな仕打ちを認めるわけにはいかなかった。屈してはならなかった。
不意に、口の端からフフ……と間抜けな音を立てて空気が漏れた。それが自分の笑い声だと気付くまでにしばらくの間があり、嗚呼そうかと判ったら判ったで笑いは止まらなくなって、大しておかしくもないのにハハハ!と腹を抱えてひとしきり笑い転げた。
「そうさ、まだだ、まだ死んでやるわけにはいかんよ」
今だからわかるが、この時の私は腹が減り過ぎて、脳味噌の何処か、開いてはいけない蓋が開いてしまっていたのかもしれんな。
呪いに抗いたい気持ちが空腹感と何らかの形で化学反応を起こし、それこそ悪魔的発想でもって、本件に係る最も重大な条件を引き当てたのだから。
詳細はこうだ。
寄席でたまたま『時そば』がかかったからって、奴の声で喋る少々鼻の形が奴に似た下品なババアが隣に座ったからといって、端から奴の好みに沿って云々等というこだわりは、どぶ板の下に放り込んでやればよかったのだ。そもそも、遺言も無いし、奴を喜ばせるなど言語道断。
「そうだ……中華だ!」
中華料理こそは、この状況下で最も狡く効果的な選択だった。
奴は脂っこいのは苦手だったし、猫舌だからあんかけやら底がカリカリの餃子やら、熱々をハフハフやるのを有り難がるなんて好みじゃないと……つまり中華ならいい厄除け、いやお祓いがわりになるということだ。
この時の私が考えていたのは、ニンニクがたっぷりと効いたタンメンの丼。そう、もやしやキャベツや小松菜・キクラゲ・人参やらが、鶏ガラベースの塩味スープに浮かんだ手もみちぢれ麺の上にどっさり乗った……あの、飲んだ後に食いたくなる一杯のことだった。熱々の、ハフハフ、である。
そうと決まれば、丹田にグッと力がこもる。立ち上がると、薄暗い路地に一人ぼっちであっても勇気が湧いて、俄然足取りが軽くなった。
餃子でビールを迎え撃ち、締めに具だけで腹いっぱいになりそうな塩味のタンメンをズズッとやれば、私の悲願は達成される……実に素晴らしい、完璧な図面だと、私は信じて疑わなかった。
そうとも。
人の心を見透かした気になって他人を脅かすババァも、あの世から呼び戻された訳を知ることなく嗤う爺さんも、ヒダル神の真似事でもって私の可愛い腹の虫を誑かす怪しき何ものかも、辛うじてというまくらが付いてはいるが、私はここまでひとりで退けてきた。
次は本丸。その本性は既に掴んだ。
変容した奴の意思、否、既に「奴の」と付けるのもおぞましいそいつを、今度こそ、二度と娑婆で好き勝手出来ないように葬り去ってやる……そう、息巻いていたのだよ。
此処から、どう考察しても落としどころが見つからない、理解不能な珍事がもう一つ起こる。
そして、それを知ってもらうことが、私が恥を忍んで君に手紙を書いた理由だ。
こればっかりは、もうお手上げなのだよ。
私が抱える萎みかけの脳味噌ひとつでは、とても解決には至らない。
一連の妙な出来事はこの最後の出来事でけりが付くが、私の半生においてここまで不可思議な事は後にも先にも無い。これまで以上に詳細に、包み隠さず書くから、どうか君の考察を聞かせてくれたまえ。
【第五回へ続く】
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