"わたし"の形を変えられなくても。
私はどうも社会で生きる私とプライベートの私を意識的に分けられないようだ。
最近知ったのだが、多くの人は社会の私とプライベートの私を分けていたり、他者と関わる時の自分と私だけの世界の自分を切り離して考えられたり、場面によって自分の開き具合を調整できるらしい。
私はここらへんの調整や割り切りがどうも苦手で、"わたし" という存在を変化させることが出来ない。調整してるつもりでも "わたし" という枠の大きさや形は変えられず、"わたし" のままなのだ。
だから、頭で分かっていても、都合よく割り切ったり、その場を取り繕ったり、上手くやり過ごしたり自分が楽になるために適切な手段をなかなか選べない。
選んだとしても、嘘をついている、それは本音では無い、といったモヤモヤや罪悪感が生じてしまうのだ。
その場の違和感をやり過ごすか、その後の罪悪感を流すのか、その2択のようになっていて、どちらも選びたくない私は他の選択肢はないのかともがいている笑
どちらかを諦めたり、どちらかのストレスを最小限にする捉え方を取り入れたり、そういう方法もあるのだけど、それすらも「これじゃない!」と反抗する私がいるから、なんとも取り入れづらい。
ここでどれかに選択肢を絞って頑張ることが社会に適応することなのかもしれないけど、宇宙視点で見たらきっと他にも選択肢は無限にあって、私が私でありながら、こういった部分を受け入れられる方法もあるんだろうなぁと思う。
そう考えたら、今この状態を無理に改善しようとせず、ただ私は今こう感じているなぁと観察し、漂わせておくのもありだと感じる。
全てを今すぐに改善しなくても良いのだ。
観察し続けること、タイミングが来た時に納得できる状態にしておくこと、そんなことも大切な気がする。
ただこの観察している時間を「悩んでいる時間」とマイナスに捉えるのではなく、もっとフラットに、なんならプラスに捉えていきたい。
「ゆらぎの時間」「変容期」「わたしへのチューニング期」etc…
自分のモノサシとして、自分が安心する名前やしっくりくる名前をつけて、自分のルールとして定義づけしていく。
きっとそういうものを増やすことが、自分を生きることであり、自分らしく生きることであり、自分を確立していくことなのだろう。
他者ではなく、社会ではなく、自分に合わせる。
目に付いたものからひとつずつ、自分色に染めていこう🎨💫