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言葉にすること
この数日、私の中で「言葉することは良いことなのか」という悩みが生じていた。
言葉にすることは良いことだし、言葉にしないと伝わらないし、私の言葉が好きだと言ってくれる人もいる。
でも本当に、自分が見えているものを全て言葉にすることが正しいことなのか。
それが分からなくなってしまったのだ。
言葉にすることで、自分自身を表現できるし、自分自身の感じているもの・見ているものを伝えることができる。
言葉をきっかけに、世界が広がることがある。
それと同時に、言葉にすることで世界を制限し、自分自身を閉じ込めることにもなるのではないかと思ったのだ。
言葉にしないことで余白が残る。
言葉にしないことで余韻が残る。
言葉にしないことで共有できる。
そんな世界もあるのだ。
言葉にしないということは、時に抽象的で曖昧さを含んでいて柔軟である。
一方で言葉にするということは、この柔軟性が無くなり、鋭さや圧力を含むのではないか。
私が普段見ている「言葉にする世界」の反対の世界を感じたら、「言葉にしない世界」が存在した。
当たり前なのだが、まるで文化が違く見えた。
私が今まで行ってきたことは何だったのか。
私がこだわってきたものは何だったのか。
言葉にしない方が他人との繋がりやコミュニケーションが生まれるのではないか・・・
私にないものを目の当たりにして、私の存在自体が消えていくような、そんな感覚すらも感じていた。
でも、私から言葉にすることを奪ったら何が残るのか。
言葉にしたいというのは本音だが、全てを言葉にできるとも、言葉が全てだとも思っていない。
言葉にできるのはごく一部。ごくごく一部。
この今一瞬に自分が感じている感覚や思考の一部しか切り取れないのだ。
その外側には多くの関係のある出来事が作用していて、それらひとつひとつに流れがあり、いろいろなものを含んでいる。
だから、人が違ければ見ている視点も捉え方も感じ方も異なるのだ。
やっぱり言葉にしなければ分からない。
だって誰1人として同じことは考えられないし、同じものは見えないのだから。
言葉にすることで、伝えることで、どれだけ同じものを見ているのか、どれだけ違うものを見ているのか、それに気づくことができる。
その違いから生まれるものがあれば、共通している点から生まれるものもある。
言葉にすることに固執しすぎなければいい。
全てが言葉になると思いすぎなければいい。
言葉にしなくても良いと余白を残しておけばいい。
言葉にしたいものだけを言葉にしていいと許せばいい。
余白とゆとりと空間を残したままに。
その上で言葉にしていこう。
ここにいると、ここで私は生きていると、この感覚を味わっていると、自分の足跡を残すように。
まだ、「言葉にしない」ということに対して、「言葉にする」ということに対して、心のモヤはかかったままだ。
でもこれは無理に払おうとせず、無きものにせず、たゆたわせておこう。
何かがみえる、そのときまで。