神武の東征 熊野

http://wakayama-rekishi100.jp/story/058.html

>神武天皇は東大阪の孔舎衛坂(くさえさか)(kusaesaka) で敗戦した後、
>兄神たちを失いながらも軍を南へ進め、紀伊半島の熊野 (kumano) に上陸します。

>熊野では軍を率いて狭野(さの) (sano) を越え、熊野神邑(みわのむら) (miwanomura) に着き、
>天磐盾(あまのいわたて) (amanoiwadate) に登ったとされています。

>この狭野とは現在の新宮市佐野、神邑は阿須賀神社 (asuga) あたり、
>天磐盾は神倉神社 (kamikura) のある神倉山といわれています。

>その後、神武天皇は熊野の丹敷浦(にしきのうら) (nisikinoura) で
>丹敷戸畔(にしきとべ) (nisikitobe) という者を討伐しましたが、
>その場所は、境内に神武天皇頓宮跡の碑が立つ
>熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)あたりとされています。

>また、熊野那智大社 (nati) も東征神話に絡む創建経緯があるとされ、
>そのシンボル・八咫烏(やたがらす) (yatagarasu) は道案内を務め神武天皇を助けたと伝わります。
>神武東征にまつわるスポットをめぐり、
>今なお語られる神話のロマンに思いを馳せましょう。

神武の東征の熊野への上陸では、いろいろな地名が出てくる。

「牟婁(むろ)(muro)」地方は広い地域を指している地名だ。
これも万葉仮名で、漢字列には意味がなく、音だけに意味がある。
しかし牟婁の地域が広すぎて、土地の特徴がわからない。

熊野 (kumano)の熊 (kuma) は、物干し竿状になっているものだ。
(図1)が kuma とのこと…知里真志保

kuma

説明にないけど、(図2)の様に片側だけでも kuma 熊だと私は思う。

kuma その2


(図3、図4)は川の横断図のつもりで書いたが、河岸段丘になっていて、
滑らかになっている河岸段丘が masa で、垂直に近い段丘が kuma だと思う。


kuma その3 河岸段丘


河岸段丘は日本中にどこにでもあるので、kuma(熊)の地名や苗字は多い。
さらに例えばkuma-no熊野の地名があるならば、
※masa/masa※/※masa※ (何々まさ/まさ何々/何々まさ何々)
の地名もあって良い。と言うよりなければならないと思う。

熊襲部族をヤマトタケルが騙し討ちした神話がある。
熊襲は 「kumaso ← kuma + so」 と分けられるので、
物干し竿状になった床と理解できる。
なので、現代では高床式住居であろうという本を昔読んだな。

※ so = 水中の隠れ岩、滝、ゆか(床)、めん(面)、表面一体…知里真志保

kuma-so 熊襲

高床式住居は、伝統的な竪穴式でなく珍しい住宅だ。
通気性が良いので、熊襲は南方の高温多湿地帯に住んでいた
部族でないかとの事。

#神武の東征 #牟婁 #熊野 #熊襲 #南方海洋民族 #ヤマトタケル

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