北海道が大好きなお馬さんの話。
国松栄は困惑していた。
函館競馬場。
JRA(日本中央競馬会)が運営している10場のうち、夏の北海道開催のみで開場される競馬場である。
国松はそこに立っていた。
しかし、国松はそこに至るまでの記憶がない。
というより、つい今しがたまで東京競馬場に居たはずなのである。
そう、国松は2020年6月21日。
東京競馬開催日において、管理馬のレース模様を見届けているところだったはずである。
国松は腕時計に目をやった。
日付は2020年6月3日。2週間以上前の日付。
「俺は夢でも見ているのか・・・?」
ひとまず、国松は管理馬房の方へと歩みを進めた。
向かった先には、調教助手の鈴本が居た。
「あれ、栄さん、どうしたんですか?なんか、狐につままれたような顔をしてますよ」
「おお、まさしく今つままれてるんだよ、これが」
「え?どういうことですか?」
「いや、今話してもお前まで狐につままれそうな気がするから・・・」
「なんですか、それ笑 ま、いいや、ちょっとベルファイアの様子を見てくださいよ」
「おう、ベルが居るのか」
「え?そりゃ居ますよ笑 ほんと今日の栄さんはふわふわしてますね」
ベルファイア。5戦1勝の4歳牝馬。
2歳の頃は、その血統背景などから「アーモンドアイ2世なるか!?」と騒ぎ立てられたこともあるが、期待したほど成績はパッとせず。
その後、骨折もしてしまい未勝利引退の危機に陥ったこともあったが、なんとか1勝をもぎとり、今に至る。
そう、その1勝を勝ち取った場所も函館競馬場であった。
ただ、それからもベルファイアは幾度となく頓挫してしまい、やっと復帰できそうなところに持ってくるまで1年近くの月日を費やしてしまった。
そう。
そもそも俺はベルファイアを東京競馬場のレースに出そうと美浦トレセンに持ってきていた。そして、さっきまでレース途中で3コーナーを曲がるところだったはず・・・?
こんなことがあるのだろうか。
時間も。
場所も。
思っていたところと変わってしまっている・・・
こんなことが現実に起こるものなのだろうか。信じられない。
そう思ったところで、さっきまでの世界に戻るすべなど持ち合わせているわけもない。
そして、普段の生活を考えれば、今の状況を思い悩む時間など、あるわけもない。
「栄さん!ベルのところに行きますよ!」
「お、おう」
そして、ベルファイアの馬房に辿り着いた。
「変わったところはないか?」
「そうですね、大人しいもんですよ、それに最近ほんと意欲的に走るようになったんですよ。北海道に戻ってきたとたんこれですからね、この仔は北海道の水が合うんですかね」
たしかに。
天栄スタッフの話を聞くたび、天栄では思うように調教が進んでいなかった。
というより、いざ実戦に戻そうとすると何かしらのトラブルが発生して頓挫してしまうのだ。
今回の東京のレース(今、こちらの世界では成立していないレースだが)に1年ぶりに出すのも、本当に苦労した。
正直、ベルファイア自身があまりレースに出るのを気乗りしてなさそうなのは明らかだった。
確かに、去年勝っている競馬場。そして、早来からの移動を考えると、タイミング的に普通なら函館を使うところであろう。
しかし、今回はもろもろ調整やしがらみなどあり、東京で使わざるを得ない事情があった。
そう、事情を優先させてしまった。
そして、今である。
「もしかして、お前が函館に出たいから・・・?いや、そんなわけないか笑」
「栄さん、なにブツブツ言ってるんですか笑 次の馬見に行きましょう!」
「お、おう」
国松と鈴本が去ったベルファイアの馬房から、フフっと馬っぽくない発声がかすかに聞こえた。