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視覚の移行(6)見ることと見られること

松村潔先生のカンガルーの話

松村潔先生に視覚の話をすると、先生はよくカンガルーの話をして下さいます。カンガルーを引き寄せたいと思った時、呼んだりするのではなく、カンガルーに背を向けて手のひらを見ると寄ってきたという先生のご経験です。
私がオーラ視の練習をしていた時も、動物のオーラを見に動物園に行ってみようかなと言うと、動物を引き寄せるには興味のないふりをするのがいいと言って、そこでもカンガルーの例をお話になりました。
最近のnoteでの著書(kindleにもある)『サビアンシンボルでアカシックリーディングする』の(45)(46)巻でも、このことについて書かれています。

わたしがサファリパークで、数十メールむこうにいるカンガルーの群を、自分に引き寄せたいと思った時、わたしはカンガルーに背を向けて、自分の手のひらを見ていた。すると、あっという間に、カンガルーたちはわたしを取り囲んで、この中の母カンガルーの、自分の腹の袋に入れた子供の足が、わたしの頬にあたった。
この場合、やはり謎の、わたしの手のひらの中の暗闇に、カンガルーたちは引き寄せられた。
なにしてんの?、おい、なにしてんの?
わたしはこのカンガルー心理について、詳しく知っているということに、いまさら驚いた。この人生で、カンガルーに接したことは一度もないからだ。カンガルーはアボリジニだ。
サビアンシンボルでアカシックリーディングする(46)
 見ただけで存在が生まれ、世界が作られる。つまり「見る」あるいは「認識する」というのは、意識それ自身を縛るものであり、世界に制限を作り出し、その結果さまざまな事象が生まれて、嵐や雷や台風などが発生するのだ。「物事をあるがままに見る」行為は、おそらく一時も同じ場所にいられない。
 エニアグラムを持つと、世界はそのように「飛び込んできて」そのように働く。世界は元気すぎるので、エニアグラムを持っていると、世界がそれに噛みついてくるような現象を生成する。わたしは数十メートルむこうにいるカンガルーの集団に来てほしいと思った時、カンガルーに背を向けて、自分の手のひらをじっと見た。すると、カンガルーたちは好奇心で、わたしの周囲を取り巻いたことを思い出すが、手のひらになにか記号を持つと、周囲が動く。
サビアンシンボルでアカシックリーディングする(45)

私がこの話を聞いたり読んだりするのはおそらく5~6回目で、はじめは単に動物を引き付けるためのコツの話だと思っていたのですが、何度も聞くにつれ、表層的な理解ではなく、この話にはある真理ともいえるような深い何かがあるのではないかと感じるようになりました。
(46)ではさらに、並んで挙げる例としてノストラダムスの「暗闇を提示するやりかた」について書かれています。

ノストラダムスのやり方

北斗七星は、抽象的なレベルにあるので、(地球にかまっていないので。)より具体的にするには、ノストラダムスのほうが、はるかに、「地上的」で、詳細に渡っている。
1999年に降りてきた、わたしの母と自称する黒い怪物は、ノストラダムスの1999年予言の「旗」めがけて降りてきたと思う。ノストラダムス予言が「よすが」なのだ。
ノストラダムスが捏造したものに、乗ってきたと言ってもいい。
ノストラダムスは、予言しているのではなく、シナリオを作っているのだ。
暗点を作ると、だいたい人はそこに引き寄せられる。ノストラダムスは掃除屋なのか。
「人類がそこに陥らないように、否定的な未来を提示する」というのは、ノストラダムス発言としては不自然で、だいたい、鶏をケージに追い込む技術を発揮しているに過ぎない。肯定的なことを言うより、暗いことを言うと、人類はそこに集まってくるということに通暁している。
サビアンシンボルでアカシックリーディングする(46)

こういった話で私が思い出すのは、ハマのメリーさんです。『横浜の赤い靴神話ー横浜星図ー』でも取り上げましたが、海軍将校相手の立ちんぼ娼婦だったと言われるメリーさんは、年老いてからも横浜に立ち続け、街を行き交う人々をじっと見ていました。顔を真っ白に塗ったメリーさんと目が合うと怖いので、見られている人は目を合わせないようにし、でもみんな有名なメリーさんを見たいので、横から、後ろから、こっそり盗み見るのでした。メリーさんの生き方は多くの人には理解し難いものでしょうから、そこにいわば「暗闇」ができ、惹きつけられるのだと思います。

メリーさんはヘリオセントリックの地球ポイントがデネボラと合なので、アウトサイダーの立ち位置から人々を眺めているのですが、見られている人というのは、見ている人に対して真っ向から見返すことは少なく、見られている立場を受け入れることが多いです。
メリーさんと松村先生は誕生日が近く(生まれ年は全く違う)、松村先生も地球ポイントがデネボラと合ですから、先生が講座前に参加者をじっと見ている視線と、メリーさんが通行人を見ている視線はどこか似ているものがあると感じます。松村先生に観察された側は、私が思うにその露骨な(とも言えるほど明らかな)視線に完全に気付いていると思いますが、皆じっと見返すことはしません。見られている側に徹するのです。

もしかするとアウトサイダーは、観察し続けることで、自分達に関心が向かないよう、無意識に仕向けているのかもしれません。

しかしこの時、見られている側には何も影響がないように見えて、実は見られることにより変化が生じていますし、それにより見ている側にも変化が生じています。見られている側は決して受動的とは言えない状況にあるのです。「見られている」とは、「見ている」と変わらないような、流動的な状態が発生しています。皆さんはそれを感じることができますか。
見る見られるの状況下にある時、それは感じられないだろうと思います。でもあとから状況を思い返してみると、確かに影響があったことに気が付きます。また見る見られるの状況下にあっても、その瞬間に別の視点を確保できれば、見る見られるの流動性を感じることができると思います。

カラスに背を向ける

視覚の移行を練習している時はどうしても、見ようとしてしまいます。しかし視覚を非物質に移行するには、まず物質を見ている乙女座の視覚から、全体をぼやっと見ていてどこも注視していない魚座の視覚へと移行し、そこで見えた光や影や時空の歪みみたいなものを改めて見てゆくわけですが、珍しいものが見えた時、ハッとして、もっとよく見ようと注視すると消えるということがあると思います。そういう時は、まるで興味などないという姿勢を貫きつつ、何となく見なければなりません。見たいものに土足で乗り込んでいかないとでも言えばよいでしょうか。
このシリーズは12感覚のうち視覚の移行に限定して書いていますが、視覚だけではなく、気配やにおいや音、触覚なども連動させて察しようとすることも必要になってくるのだと思います。

2週間ぐらい前に、この「見る見られる」の真髄について夢見をしていたら、遠くからカラスが「カッコウ」と鳴いているのが聞こえてきました。これは夢ではなく実際の話で、私の家のそばにはカッコウと鳴くカラスがいて、それが1羽なのか、何羽もいるのか分かりませんが、前にもそのカッコウと鳴くカラスがベランダに来たことがありました。カラスは鳴きながら飛んでいて、徐々にこちらに近づいてきていたので、私は「例のカッコウカラスだな」と思い目が覚めたのです。カラスは、私が夢のエーテル領域で「見る見られる」問題についてウェブを張っていたら、それに興味を持って近づいてきたのでしょう。
それならばと私は空中に黒鏡をイメージし、黒鏡を覗き込んでカラスに背を向けるようなイメージをしました。するとカラスはどんどん近づいてきて、ついにベランダにとまり、ずっと「カッコウ」と大声で鳴いていました。
私はだんだん、実物のカラスを見たい思いに駆られ、起き上がってカーテンを開けようかと考えると、黒鏡のイメージがだんだん薄れてきてしまい、するとカラスは飛んで行ってしまいました。

これはカンガルー体験にも似ていますが、何よりも、私の夢に反応したカラスというのが印象的でした。鳥はみんなエーテル体の網目を認識しているはずですが、カッコウカラスはほかの普通のカラスと違ってアウトサイダーだからか、私が投げたウェブに反応したというのが、なかなか興味深い出来事でした。そしてやはり、見なければ興味を持たれるし、見ようとすると相手は見ることをやめます。

猫を釣る

何日か前の夢になりますが、私はピクミンのようなショッキングピンクの全身タイツ姿になっていて、頭にはチョウチンアンコウみたいに前に垂れたポンポンがついていました。その姿で蕎麦屋に入り、2階に行くと、そこにいる何匹かの猫たちに頭のポンポンをみせました。すると猫は勢いよく向かってきたので、私は顔にけがをしないように目を閉じて手で顔を隠しました。ポンポンに猫パンチの振動が伝わってきて、何とも言えない楽しさがありました。

ピクミンのような私は松果体そのものと言っても良いのかなと思います。ショッキングピンクなのは、前に松村先生が私のことをピンクと言ったからなのか…?頭のポンポンも松果体を強調したものですが、私は目を閉じてポンポンだけですべてを感じ取ろうとしていました。

この夢は、カンガルーやカラスに背を向ける話や、ノストラダムスの暗闇を提示する話とは少し違うように見えて、実は同じ話です。
蕎麦はひも状でエーテル体を表しているので、蕎麦屋の2階はエーテル界とか、非物質界のことです。猫は寝る子ですから、いつも夢の中でエーテルを行き来する者たちであり、エーテル界には私たちも含めて様々なものが漂っているわけですが、そこへ松果体を投げ入れて漂わせておくと、釣れるものがあるわけです。
自分と無関係のものには目が行かないという意味では、これはとても効率的で効果的なのではないでしょうか。

ポンポンに伝わってくる振動は、何度も繰り返しているうちに詳細なことまでわかるようになると思います。
深海魚を釣る時、ほんの小さなアタリを察知して糸を巻き上げるわけですが、その時、浮袋の付いた魚の場合はだんだん浮いてくるので糸が斜めに上がってくるそうです。浮袋のない魚の場合は、糸は真下にあります。そういったことも、何度も釣りをしているうちに分かってくることです。

同じように、非物質界に感覚を広げようとしていると、そこに微かにヒットするアタリについて詳しくなり、精通してゆくのだろうと思います。

現時点で私が言語化できるのはこの程度で、まだカンガルー現象やノストラダムスが暗闇を提示するやり方について、掘り下げ切れていない感じがあります。今後も気に留めて、「手のひらに記号を持つと世界が飛び込んでくること」について、より掘り下げる機会があれば、してゆきたいと思います。

マガジン:視覚の移行

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