『歴史・文学・エスペラント』
今日(9/22)、名古屋で『日本エスペラント大会』がひっそりと幕を閉じた。
これは毎年「誰しもの第二言語」を目指して創られた人工の言語、エスペラント語をしゃべる人たちが日本のある地方に集まる、数百人規模の祭典だ。しかし、今年はコロナの影響で参加者の足が遠のき、実参加者の数が減った。そのため、例年と比べて静かで活気が抑えられた大会になったことは否めない。ただし、イベントのオンライン化がすすむきっかけともなり、必ずしも悪い結果だけにコミットしたわけでもなかったように思う。
ところで、いつも参加者には特典がある。今回の名古屋の行事では二つの本を頂いた。一つは「コングレーサ・リーブロ」と呼ばれる大会のプログラムや後援者のメッセージ、参加者の情報が収められた冊子だ。もう一つは名古屋エスペラントセンターから、この行事に合わせて出版された『歴史・文学・エスペラント』という本だ。著者は元日本エスペラント協会理事の伊藤俊彦である。
どちらも印刷がしっかりし、カラーページも印刷されていて、全体的にしっかりしている。装丁もきれいだ。両方とも今までにないほど立派な書籍に仕上がっている。そのため、正直、「こんなしっかりしたものを参加特典でもらっていいのか」と恐縮している。
『歴史・文学・エスペラント』の意義
『歴史・文学・エスペラント』は間違いなく、昨今のエスペラント語の出版業界にとって意義がある本だ。
まず第一にこの本は著者による「エスペラント語が絡んだ本、あるいはエスペラント語で書かれた本の感想・書評」という稀有な分野を取り扱っていることがあげられる。
第二にエスペラント語を取り巻く環境が変わってきていることが挙げられる。例えば先日、NHKラジオの「らじる★らじる」でジャーナリストのトニー・ラズロから「コロナ禍の中でエスペラント語が学ばれるようになってきている」というお話が聞けた。
お話の中では直接的にコロナ禍とエスペラント語の人気の因果関係について説明はされなかったものの、筆者の体験ではZoomなどで話し合いの場を設け、欧州、南北アメリカ、東南アジア、東アジア、中東などからエスペラント語でお互いの国のコロナの状況を話し合ったり、学習状況を伝え合っていることを筆者の身を持って確認している。
「人気が再燃」というのは言い過ぎかもしれないが、このソーシャルディスタンスが叫ばれ、移動が制限される世の中で、下記のことがエスペラント語に興味を持たれる要因になっているのではないかと思う。
①ケータイの無料アプリでエスペラント語が勉強できるようになった。
②エスペラント語の簡単さに反して得られるものが多い(知見、情報、海外とのコミュニケーションの可能性)。
そのため、エスペラント語の便利さに世界がゆっくりながらも気づいてきた、というのが筆者の所感である。最近では加藤直樹の『九月、東京の路上で』が第二十二回早稲田文学新人賞を受賞した間宮緑によってエスペラント語へ翻訳されたことも記憶に新しい。
その流れで日本語で読めるエスペラント語で書かれた読み物を専門とする書籍が世に出たことは、なかなかのタイミングではないだろうか。
『歴史・文学・エスペラント』の出版から見えるもの
しかしながら、何か欠けている!
というのも、伊藤の書評に隠れるエスペラント語の書き物に対する「楽しさ」「ワクワク感」はエスペラント語を嗜んだ人にではないと伝わりにくい。
日本におけるエスペラント語の歴史は、一九〇六年に出た二葉亭四迷の『世界語』から考えても、百年を超える。しかし、残念なことに、現代においてエスペラント語文学に関わるテーマを取り扱う本や日本語に訳された、エスペラント語原作文学のアンソロジーなどは少ない。
エスペラント語原作文学の日本語訳にしても、思いつくのは例えばエロシェンコであったり、ウィリアム・オールドの詩集ぐらいのものである。また、エスペラント語の文学論として頭に思い浮かぶのは『節英のススメ』の著者、木村護郎クリストフとポーランド語の教科書を執筆する渡辺克義(編)による『媒介言語論を学ぶ人のために』に収録された、渡辺の「エスペラント文学の可能性」という短い論文だ。
また、明石書店の『文化と政治の翻訳学』に含まれている臼井裕之の「谷川俊太郎とウィリアム・オールドの「出会い」と「共鳴」――そして、詩を翻訳する〈不可能性〉について」も翻訳とエスペラントの関係を論じていて興味深い。
しかしながら、エスペラント語文学はメジャーな分野とは言い難く、マニアックな学術分野や文学フィールドの日陰に収まってしまっていると言われても仕方がないのが現状である。伊藤の本の中でもオーストラリアのSteeleやタジキスタン育ちのKarpunina、フィンランドのジャーナリストKniiviläなど、名前を知っている読者は「伊藤さんはこんな本を読んでいるんだ」と思うだろうが、知らない人にはどれだけアピールできるかはわからない。
そのため、普通の読者には事前知識が不足しており、伊藤の本の意義がエスペラント語を知識がない人たちには伝わりにくいのではないだろうかと分析する。
一時期、池澤夏樹や沼野充義らの活動によって「世界文学」という単語が一定の知名度を得たが、私の知る限り、そのような「世界文学」の中にエスペラント語文学は含まれたことはない。
例えば、そのような枠組みーもっぱら池澤であるがーにおいて、ナイジェリアのチヌア・アチェべや私の大好きなエイモス・チュツオーラなどアフリカの文学作品が強く前面に出た。だが、それに対し、エスペラント語文学は日本人の文学の一部でもあるはずなのに考慮されているようには思えない。「"自称"国際語」は胡散臭くてダメなのだろうか。
終わりに
伊藤の本でエスペラント語を知らない読者が「自分の知らない世界が垣間見えた」と思ってくれるとありがたいが、伊藤の本と一般読者の間を補う努力が日本のエスペラント業界にもっと必要なのではないか、と感じる。日本文学のエスペラント語への翻訳文学・原作のアンソロジーはエスペラント語がわかる人向けに存在はしているが、日本人「へ」エスペラント語の書物を紹介する出版物が少なすぎるのが難点だ。もしそれが少しずつでも改善されれば、伊藤の本への関連性が増える。そして、伊藤の本自体もエスペラント語の書籍に対するハイパーリンク的な働きが期待でき、本の価値の輝きがもっと増すのではないか。
『歴史・文学・エスペラント』(1500円+税)は日本エスペラント協会で販売されており、現在Amazonなどでは見つからない。人工言語や人工言語での世界文学などに興味がある方は下記の連絡先に問合せをしてみてはいかがだろうか。
日本エスペラント協会:
アドレス:esperanto@jei.or.jp
電話番号:03-3203-4581
https://www.jei.or.jp/
ところで、個人的なエスペラント語に対する見解をまとめた記事を、今細々と書いて下書きにしている。書き上がったらアップするので、この記事を読んで少しでも、「"自称"国際語」に興味を持って頂けた方は、また少し待っていて欲しい。