「もしも」世界における統一モンゴル語圏
Twitterで「モンゴル語圏」という言葉を見つけました。この単語はとても興味深く感じました。
おもしろいツイートだったので、私もカルムイク語の翻訳アプリで「バス停」を調べて応援させて頂きました(私、カルムイク語は基礎知識もない、ズブの素人です)。
ところで、ツイートから離れて、私が連想したモンゴル語圏は「モンゴル諸語が話される地域」です。国名で考えると、モンゴル、ロシア、中国です。
もっと噛み砕くと、🇲🇳ハルハ・モンゴル(外モンゴル)、🇨🇳チャルハ・モンゴル(内モンゴル)、🇷🇺ブリヤート共和国、カルムイク共和国、というイメージです。カルムイクだけカスピ海側に存在するので、共和国を持つモンゴル諸語としては飛地状態になっています。
しかしながら、肝心なことにこの地域で、標準化された、統一したモンゴル語が話されているわけではありません。そういった意味で共通した単一のモンゴル語圏は成立しえないわけです。そのため、モンゴル語圏を「モンゴル諸語が話されている場所」とほぼニアイコールで考えた次第です。
しかしながら、統一されたモンゴル語圏がありえたかもしれません。
今日、北アジア(とカルムイク共和国)は日本であまり見向きされていないような地域だと思いますが、モンゴル諸語はシベリア、ツングース語系世界、テュルク語系世界、漢語系世界との狭間にあって、歴史的にも文化的にも大きな役割を果たしてきたと思っています。
そのようなマージナルな環境から多民族を飲み込むモンゴル帝国が出現したのは、周辺地域の情報を効率よく収集できたからと考えるのはどうなのでしょうか。歴史でよく知られているようにモンゴル帝国はユーラシアで各王国・帝国を相手に嵐のようなインパクトをロシアや中国やコーカサス等に与えながら駆け巡りました。別の記事で言及したようにコーカサスではグルジアの国民食ヒンカリのプロトタイプがモンゴルの襲来によってもたらされたりしています。
今日、ロシアが連邦内のアジア系民族の手綱をモスクワのもとにつないでおこうとするのも「タタールのくびき」時代の歴史的な影響がモスクワ上層部の潜在的な恐怖につながっているのではないかと考えています。また中国も北アジアや中央アジアの民族的連帯に身を光らせている印象を受けます。
(左がチョイバルサン。右はゲオルギー・ジューコフ)
もしソ連と中国が謀略なしの純粋な敵対関係にあったならばと考えます。そして、もしソ連がヤルタで西洋諸国と密約を結ばなければ、との考えます。すると、先の大戦で内モンゴルのチョイバルサンが内・外モンゴルを合併させ、極東地域に近代のモンゴル帝国ができていた可能性も出てくるのです。そしてその結果として、ブリヤート民族はソビエトを離れ、その「新」モンゴル帝国に合流するべきかという議論が立ち現れていたはずでしょう。そしてそこには北アジアに巨大な「モンゴル語圏」が発生しえた歴史もあったと言えるでしょう。
しかし、事実として、「モンゴル語圏」は現在ぶつ切り状態で存在しています。そして、それぞれで異なる標準語の制定、異なるとの言語併用状態、異なる言語政策が実施されたため、今日のモンゴル語(ハルハ・チャハル)、ブリヤート語、カルムイク語が成り立っているわけです。
そしてそれは、そもそも「ユーラシアに二度と巨大なモンゴル帝国を存在させてはならない」という歴史的な発想が中国とソビエトの政治的判断に何かしら影響を与えていたのでは、と考えることは不思議なことでしょうか。つまり、意図的に民族的な距離を近づけず、「モンゴル語圏」をバラバラにしたのではと想像するのです。そうすることにより、モンゴル民族という共通意識を弱体化させ、モスクワのロシア人や漢人が中央政権を維持し、国際的に強い力を維持できるように図ったと考えるのは、考えすぎでしょうか。
私は別に統一したモンゴル民族の国家が樹立されるべきだと主張しているわけではありません。あくまで、こういうこともありえただろうな、というお話でした。モンゴル語が魅力的に見えてくる...。
参考:
ボルジギン ブレンサイン (著), 赤坂 恒明 (編集),『内モンゴルを知るための60章 (エリア・スタディーズ)』明石書店 (2015)
Photo:ID 19213716 © Kiankhoon | Dreamstime.com
Комкор Жуков и маршал Чойбалсан: https://ru.wikipedia.org/wiki/Хорлогийн_Чойбалсан#/media/Файл:Khalkhin_Gol_George_Zhukov_and_Khorloogiin_Choibalsan_1939.jpg
資料や書籍の購入費に使います。海外から取り寄せたりします。そしてそこから読者の皆さんが活用できる情報をアウトプットします!