老人を元気づけたいと老人福祉施設でボランティアをしたら、逆に自分の方が元気を貰った話
当時24歳の私は、デザイナーになりたくてなったけど、就職した会社のあまりのブラックぶりに精神的・肉体的限界がキテいた。
24時間パソコンを見つめ、3日家に帰れず、会社の隅の段ボールと発泡スチロールの上で寝る日々。知ってますか?段ボールって暖かいんですよ。
「もうダメだ」と限界を感じ、会社を辞めて、ロンドンに人生の休憩をしに行くことにした。もう働きたくない。PC画面見たくない。
出発の少し前、有給消化中。
残された日本での時間で、遊びまくることも出来たけど、
それよりも何か有意義なことがしたい、身体を動かして、人と触れ合って、
人の役に立つことがしたい、という衝動が湧き上がっていた。
毎日パソコンとしか会話してないことの、反動のような衝動だった。
当時杉並区に住んでいた私は、駅の掲示板で杉並区主催の「若者ボランティア体験」というポスターを見て「これだ!!!」と思った。
すぐに参加申込をした。
児童館でのボランティア
ボランティア先は自分で選択できるシステムだった。
一週間の期間を3日/3日に区切り、2個所選ぶことができたので、
どうせなら全然違うところにしようと思った。
そこで子供相手の児童館のボランティアと、老人福祉施設デイサービスでのボランティアにした。
児童館では、床や階段の掃除をしたり、屋上に日陰を作ってプールを設置したり、子どもたちと遊んだり、とても楽しかった!
身体を動かして、人と触れ合って働くことがこんなに楽しかったとは。
毎日地下でパソコンの仕事をしていた私にとっては、最高に新鮮だった。
子どもは正直だ。男の子は見慣れないやつに冷たい(興味ある)ので、
「誰あいつ!」とボールを投げつけられたりした。
「おー?やんのかー?」とキャッチボールになった(笑)。
8歳の女の子とはとても気が合い(?)、2人でひたすら工作をした。
毎日毎日折り紙をして遊んだ。
その女の子は、私の最後の勤務日に、一生懸命折った折り紙をぐいっと私の手に押し付けて「これ、持ってて。ずっと、持ってて」と言った。
彼女は、私がもう2度とその児童館に来ないことをわかっていた。
もう2度と私と遊ぶことはないだろうことを、よく理解していた。
悲しいような切ないような、胸をぎゅっと掴まれる思いがした。
老人福祉施設デイサービスでのボランティア
次は、老人福祉施設でのボランティアだ。
デイサービスには、20人近くのお年寄りが来ていた。
「じゃ、自己紹介してね」と、職員の男性にマイクを渡され、
「今日から3日間お世話になります。普段はデザイナーをしています」
と言ったものの、「デザイナー」という聞きなれないワードに
おばあちゃん達はぽかん顔。
そこで慌てて「えーと、ポスターとか作ったりしています」と言ってみたもののまたまたおばあちゃん達はぽかん顔。
職員さんがフォローしてくれた。
「美術の絵の先生ですよ」
・・・いやいや
・・・・まぁ、いいか。
というわけで、いつの間にかデイサービスでの私のポジションは
「絵の先生」に・・・。絵、描けないんですけどね・・・。
美大出身でも、デザイン科なので絵がうまいわけではないのですよ。
デイサービスでは、必ず「絵」の時間があった。
職員さんがこっそり、耳打ちしてきた。
「痴呆が進んでいる方は絵を描くのは難しいので、"お願い聞いて下さい"と言って、今度納涼祭で使う壁紙を青く塗って頂きます。
だいたい"しょうがないねぇ"なんて言って、お手伝いしてくれるんですよ」
うまく自尊心を傷つけずに、皆が楽しく過ごせる配慮。
さすがだなぁ、と感心した。
私は「絵の先生」として、あじさいや朝顔の色塗りの
アドバイスをするということになった。
おじいちゃんおばあちゃん、真剣に絵筆を握っている。水彩画だ。
「先生、この色使い、どうかねぇ」「先生、この色っておかしいですか?」
どんどん質問が飛び出す。
皆、楽しそうだ。
なんだか私も楽しくなってきた。
皆の間を歩いて、それぞれ作品にアドバイスらしきことをしていると
一人のおばあちゃんがニコっとしてくれたので、隣に座ってみた。
おばあちゃんの名前は、チヨさん(仮名)85歳。
半身不随で、松葉杖なしでは出歩けないそう。
楽しそうに、でも真剣に絵を描きながら、とりとめなく色んな話をしてくれた。
趣味はカメラで、いつかお友達と一緒に花畑を撮影しに旅行に行きたいこと。
日中はお嫁さんも誰も家にいなくて、家でひとりぼっちでさみしいこと。
だから、デイサービスに来るのをとても楽しみにしていること。
うんうん、と相槌を打ちながら、チヨさんの話に聞き入っていた。
何気なくチヨさんの描いてるあじさいに目をやって、私はびっくりした。
「チヨさん、これって・・・!?」
美大受験の際に習った、とある絵のテクニックがある。
花を描く際、例えば花の色がピンクだとして、そのままピンクに塗るだけではどうしてもリアルさが出ないというのだ。絵として薄っぺらいと。
そのピンクにほんの少し、見る人にひと目ではわからないくらいの、茎の「緑」、そして土の「茶色」を混ぜると、一気にリアルさが増すんだよ、と教わった。
その、美大生や絵を日常的に描く人間だけが知っているであろうテクニックを、なんとチヨさんは、ナチュラルに使っていたのだ。
ピンクと薄い紫のあじさいに、ほんの少し、緑と茶色。
「チヨさん、なんでこれ違う色混ぜたの!?」と驚いて聞くと、「え、だって茎の色は花にまで繋がっているものだし、植物だから土から生えて来てるだろう?」
当然、という顔をして。
私は勢い込んで、これは絵のテクニックのひとつであること、
それを自然に使えるなんて素晴らしい才能だということを伝えた。
チヨさんは「まぁ、そんな風に言って貰えると嬉しいねぇ」と
少女のように頬をピンクに染めて、目を細めた。とても嬉しそうだった。
私はお世辞とかではなく、本当にびっくりしていた。
これ、普通に素で出来ちゃう人って、なかなかいません。
杉並区の小さなデイサービス、半身不随の85歳のおばあちゃん・・・。
・・・天性の才能でした。
それを自分が発見したことに鳥肌の立つ思いだった。
おばあちゃんが今、もし5歳だったら、「天才児」として絵の才能を伸ばして、世界的に有名な絵描きになっていたかもしれない。
描いてるものは、お遊戯のような「ぬりえ」だけど、85歳のおばあちゃんだけど、その才能の「伸びしろ」は無限大だった。
しかしそのことを、この世で私しか知らないという、悲しい現実。
伸ばされることはないであろう才能は、蕾のまま枯れてしまう花のようでした。
でも、チヨさんは至って嬉しそうだった。
私は、思いつく限りの賛美の言葉を贈った。出来ることはそれだけだった。
きっと、このセンスならいい写真も撮るだろうなと思った。
いつか、チヨさんの望み通り、お友達と花畑に撮影旅行に行けたらいいなと強く願った。
児童館での女の子同様、チヨさんも、私には2度と会うことはないとわかっていた。松葉杖をつきながら、帰りぎわに
「元気でね」
と言って頂いた。
チヨさんこそ、お元気で。
また、切ない出会いと別れだった。
ただのボランティアのつもりが、さながらドラマのような様相を呈して来た。
スキーじいちゃん
その日の体操の時間。
皆が輪になって楽しく踊るなか、一人仏頂面したおじいちゃんがいた。
それがトクさんだった。トクさんは輪に入らずに、すみっこに座っていた。
とても不機嫌そうだった。俺はここに属してはいない、一緒にするな!と、
全身で拒絶しているようだった。
職員が私に耳打ちした。
「トクさんはね、ここがあんまり好きじゃないみたいで、いつも誰とも話さないの。いつも不機嫌で、正直どう接していいかわからないわ」。
私は輪から抜けだして、トクさんの隣に座ってみた。
「おじいちゃんは踊らないの?」
「あ?・・・あーいや、なんか苦手なんだよな」と照れくさそう。
あれ?・・・結構話しやすそうだぞ?
続いて絵の時間。
またムスッとしてるトクさんとこに行ってみた。
「おじいちゃん、絵描かないの?」
「あ?・・・あーいや、苦手なんだよ」
あれ?・・・やっぱこの人話しやすいかも、と思い、
絵の時間中、ずっとトクさんのとなりに居座ってみた。
(注:泉谷しげるっぽいおじいちゃんをご想像下さい)
話を聞いてみると、トクさんはスキーじいちゃんだった。
スキーでは結構名の通った人らしく、杉並区からもスキーの先生を頼まれて
子どもたちに教えたり、長く活躍していたらしい。
若い時にはスキー留学までしたそうで、
「いやぁ、カナダに行ったんだけどさ、こう、吹雪の中滑走してたわけ。
で、そんときのインストラクターの女の先生のケツがね、こう、
吹雪の中プリップリしてるわけよ!!!プリプリ動いてんの!!!
俺はさ、吹雪の中、ケツを目印に必死に追いかけたっていうね!」
・・・エロじいさんだった(笑)。
それからも色んな話をしてくれた。私は笑い転げた。
後で職員に興奮気味にこう言われた。
「すごいね!トクさんがあんな話して、あんな楽しそうにしてるの
初めて見たよ!!」
トクさんともお別れのときが来た。
なんだかとてもさみしかった。
ちょっとしょんぼりしてる私を見て、職員がこう言ってくれた。
「本当はダメなんだけど・・・おじいちゃん達送るから、バス乗る?」
「いいんですか!!!!行きますっ!!」
というわけで、トクさんを送るバスに乗せて貰えることになった。
私はトクさんのところに駆け寄って、
「トクさん、私、おうちまで送るからね!!」と笑顔。
トクさんも「おお、そうか!」と笑顔。
スキーが大好きなトクさんが、悲しいことがひとつだけあると言っていた。
トクさんは、車椅子だった。もうスキーが二度と出来ないことだけが、とても悲しいと言っていた。
私は、車椅子にそっと手をかけた。
車椅子を触るのは、初めてだった。私は正直に言った。
「トクさん、私、車椅子触るの初めてなんだ」
「そうか、じゃあ、やり方覚えとけよ」と、押し方や、段差に気をつけろということ、細かく教えてくれた。
バスの中では、トクさんはじっと黙ったままだった。
私も、黙っていた。
トクさんもわかっていた。
私に会うことは、もう一生ないということを。
私は泣き出してしまいそうな、切ない気持ちを抑えこむのに必死だった。
バスがトクさんの自宅についた。
お嫁さんが自宅前で待っていた。トクさんはまた仏頂面に戻っていた。
「トクさん・・・」と私が言うと、トクさんは少し下を向いて
「元気でな」と言った。
「トクさんもね・・・元気でね」。
心の中で、どうか誤解されがちなトクさんが、残りの人生をどうか楽しく、心穏やかに過ごせますようにと祈っていた。
お嫁さんも、家族の方々も、みんないい人達でありますように、と。
扉が閉まって、バスが出発する。トクさんは、一度もこちらを振り向かなかった。
私は、いつまでも小さくなっていくトクさんを、目に焼き付けていた。
なぜか屋台の壁画描き
ボランティア最終日、出勤すると「ちょっと、手伝って欲しいことがあるんだけど」と職員の方に呼ばれた。
「なんですか?」と聞くと「夏祭りで使う絵を描いて欲しい」とのこと。
絵、描けないんだよな・・・と思いつつ、
仕方ないので「出来るだけがんばります」と答え、
何を描いて欲しいのか聞くと・・・
「嘘でしょ・・・」
それは巨大な屋台の壁画だった。
そう、痴呆の進んでいるおばあちゃん達がお手伝いしてくれた、
あの青い壁。あれを海に見立てて、「魚をいっぱい」描いて欲しい、と。
魚をいっぱい、だと・・・?(泣いてる)
もうこうなりゃヤケクソだ、とばかりに腕まくりをし、
描き始めた・・・
結果、丸一日かかった(泣いてる)。
8帖くらいの部屋に一人きり、お昼も食べず、トイレ以外部屋の外に出ず
ひたすら描き続け、終ったのは12時間後。
途中、申し訳なく思ったのか、おにぎりとお茶の差し入れを頂いた。
そしてその数日後、私はロンドンへ飛び立った。
一ヶ月後くらいにお母さんが私宛の郵便をロンドンに送ってくれた。
その中に、そのデイサービスからの残暑見舞いがあった。
「壁画ありがとうございました。納涼祭で使用し、好評でした」。
元気を貰ったのは私の方でした
私はずっと、ボランティアって、人を助けるものだと思っていました。
ボランティアって「してあげるもの」だと思っていたんです。
でも、違いました。
ボランティアで元気を貰ったのは私だったし、精神的に疲れきっていた私を救ってくれたのも、ボランティアでの出会いでした。
助けて貰ったのは、私の方でした。
元気を貰ったのは、私の方でした。
あの日の8歳の少女のいじらしさと、
おばあちゃんの蕾のままの天性の才能と、
本当はエロくて明るいスキーじいちゃん。
これは20年以上前の夏のお話なんです。
だから、このお話のおばあちゃんもおじいちゃんも、もうこの世にはいないでしょう。
でもね、あんなに素敵な人々が
あんなに可愛らしくてイキイキ輝いてたみんなが
確かにあの夏存在していたことを
こうやって誰かに伝えることが出来ることを
本当にうれしく思います。
読んでくれてありがとう。