椿姫の「第3話」

「ぢゃね、もしあなたが私の云ふことならどんなことでも、何にも言わず、わけもきかずにきいて下されば、わたし、あなたの思ふ通りになるかもしれないわ」
「あなたのお望みならどんなことでも」
「けれど私、これは前もってお断りしておきたいの。私、自分の生活についてはどんな些細なことでも貴方に打ちあけず自由に私の思うままのことがしたいの。私長い間、おとなしい素直な何も云はずに可愛がられるままになってゐる若い恋人が欲しいと思ってたの。でも今日までそう云ふ人はみつからなかったのよ。男と云ふものは、さて一切を許されてみると、今度はそれに満足しないで恋人に対して昔のことから今のこと、行末のことまで執拗(しつこ)く、ききたがるものなのよ。段々女に慣れてくればくるほど上手に出たがって、女が望むものを与えれば、なおさらいい気になって、一層うるさく付きまとうものなの。私は新しい恋人をこしらえるんなら、相手の人に三つの資格を持っていて欲しいの。それは私を信じること、よく云うことをきくこと、遠慮がちにしてゐること」
「ええ、私はあなたの思ふ通りに致しましょう」
「かどうだか、そのうちにわかりますわ」
「いつわかる?」
「ずっと後にね」
「なぜ?」
「なぜって」
マルグリットは私の腕をすり抜けて、この朝届けて来た大きな赤い椿の花束から一輪の花を引抜いて私のボタンの孔に差しながら云った。
「なぜって約束と云ふものは、調印した日に実施されるものではありませんわ」
この意味は簡単に了解出来る。
「そんなら今度いつお目にかかれるのです?」
「椿の花のいろの変わるとき」
「では、いつ花が変わります?」
「明日、十一時から十二時迄の間に。それでよくって」
「それを私にお訊きになるのですか」
「あなたのお友達にもプリュダンスにも誰にもこのことは一言も言ってはいけませんのよ」
「大丈夫」
「さあ、わたしに接吻してよ。 そして食堂へ帰りましょう」
彼女は私に唇をさしだした。 そして改めて髪をなでつけて部屋を出た。彼女は歌をうたいながら、そして私は半狂乱の態で。
サロンまでくると彼女は立ちどまって私に囁いた。
「きっと貴方はおかしいと思ひになるでせう。まるで待ち構へてでもみたやうに、私がこんな早くあなたの云ふことを聞いてしまって、その原因は何か御存知?」
「それは」と彼女は私の手をとって、自分の心臓の上に置きながら云った。
私は、彼女の手の下に彼女の心臓の烈しい鼓動を聞いた。
「それは他人のやうに私は長くは生きられませんから、他人より急いで私の一生を生きてしまうと決心したからですの」
「そんなことはないで下さい。 後生だから」
「まあそんなに心配なさらなくてもいいのよ。たとへどんなに私の命が短くてもあなたの愛
して下さるよりは長いつもりですわ」
笑ひながらこう云って、彼女は敵を歌いながら食堂へ入ってゆく。室には右衛門とお染の二人きりなので、
「小間使いはどこへ行ったの?」と彼女は訊ねた。
「あなたがおやすみになるまであなたのお部屋で眠るつもりでせう」お染が答えた。
「仕様のない女ね。どうするか覚えてるがいいわ。さあさあ皆さんお帰り下さい。 もりお時間ですから」
それから十分後には右衛門も私も暇をつげた。梅葉は私の手を握って別れの挨拶をした。
外へ出ると右衛門が訊ねました。
「おい梅葉をどう思う」
「彼女は天使だ。僕は気が狂ったようになってしまった」
「きっとそんなことだろうと思っていた。で、君はそのことを彼女に打明けたのかい?」
「うん」
「あの女は君を信じるって約束したかい」
「いいや」
「お染とはわけがちがうな」
「それぢゃお染は君の云うことをきいたのか」
「きいたところか。君、とても信じられないが、あの太っちょにもあれで仲々いい所があるぜ」と右衛門は云った。
 私は家へ帰ったが寝つかれないので、その日の出来事をいろいろ思い出してみた。余りにも早く自分の希望どおりすべてが、すらすらと運んだので、まるで夢のやうに思われた。しかし梅葉のやうな商売の女なら、口説かれた翌日男に身を委せようと約束する位のことは何でもあるまいーーーこう考えなおしてみても無駄だった。 私の将来の恋人たるべき女が私に残した印象は非常に強烈なもので、いつまでも私の脳裡から消えなかった。私にはどう考えへても彼女は他の同じ仲間の女たちとは違うやうに思はれるし、それに男たちに共通な自惚れから自分が彼女に心を惹かれていると同じに、必ず彼女も私に心を牽かれているものと信じようとした。
ただし私は、その反対の例も数多くみているし、梅葉の恋は季節のうつりかわりによって高くなったり安くなったりする商品みたいなものだと云う噂も度々きいている。
しかしこの噂が本当なら、彼女が若い伯爵を撥ねつけた事は如何に解すべきだろう。又、若く才があり金もあるガストンを選ばずに私を選んだのは何故だろう。 一年間かかっても出来ないことが、時にはたった一分間でなし遂げられると云うことは、真実である。
恐らく私の熱情が彼女の心を移動させたのだろう。
私としては久しい間、愛しつづけて来た彼女への恋が今まさに遂げられようとしているのだから、もうこの上彼女に何事も望むことはない筈である。
しかし私は一晩中まんじりともしなかった。もはや私は半分気が狂っていた。金もなければ粋なところもない自分のような男が、ああ云う女を自分のものとする価値はないと考たり、また一方では、そう云い女を自分のものにしたのだと自惚れてみたりするのでした。そうかと思ふと、梅葉はほんの二三日の浮気心であんな約束をしたのではないかと疑ってみたり。そして、そんなにもあっけなく別れてしまうなら、今夜は彼女の許にゆくのを見合せて胸に浮んでくる様々の疑惑を手紙に書いて旅に出た方がましではないかと考えたりした。また、いつの間にか限りない希望や信用が持てるようにも思われる。自分の力で、あの女の身も心も癒してやろう。そして一生涯あの女と暮らそう。そしてあの女は、いかなる純潔な処女の愛にも増して自分を幸福にしてくれるだろうなとも考えた。
そのうちに、うとうとと深い眠りの中に落ちていった。
目を覚ましてみると、もう午後の二時だった。 素晴しく美しい天気だった。人生がこれほど美しく、これほど豊かにみえたことはかつて一度もなかった。前夜の記憶は少しの影もなく、ただ嬉しい今夜の希望だけがあった。私は急いで着物をきた。 私は幸福で、どんなよい行いでも出来そうに思えた。私の心臓は踊り、からだ中が軽い熱病にかかったようにうづうづしていた。私は、梅葉に会う時間の外は何も考えなかった。
私はもう家にじっとしていることは出来なかった。私は外へ出た。私はシャン・ ゼエの方に歩いて行った。途中で逢う人が誰も彼もみな愛すべき人々に思われた。愛は何と人間を善良にさせるものでしょう!
私は一時間程をあちこち散歩してみた。すると、梅葉の馬車が遠くからやってくるのが見えた。その馬車はシャンゼリゼエの角を曲ろうとした瞬間に止まった。
 すると、そこに集って話をしていた一群の人の中から、丈の高い若い男が来て、 彼女と話は交わした。二人の話はすぐ終わり、若い男は再び元のむれの中に戻り、馬車は動き出しました。私はその群に近づいて行って、その若い男が伯爵だと云うことを確かめた。マルグリットが現在の華を身につけるようになったのは、彼のおかげだとお染が私に教えてくれたその人なのである。
恐らく前の晩来訪したのに彼女に謝絶されたのはこの人で、彼女はその言い訳をしたのだろうと私は想像した。それから後はどうしてその日をすごしたか、まるきり私は憶えていない。散歩したりをタバコをふかしたり、雑談したり、そしていつか夜になっていた。私は家に帰って三時間も身じまい費やした。
十時半が鳴ると、「さあ出かける時だ」と独り言を云った。
安箪町に着いて、梅葉の窓をみると燈がついていた。私を呼鈴を押した。門番に梅葉は在宅かとたづねると、十一時か十一時十五分にならぬと決して帰らないと答えた。
時計をみると家を出てから五分と経ってないのに気付いた。
私は商店のない、ひっそり閑として人通のない町をさまよい歩いた。
三十分ほどたってから梅葉は帰って来た。 そして誰かを探すようにして馬車を降りた。梅葉が呼鈴を押そうとした途端に私は近づいて声をかけた。
「今晩は」
「あ、あなたでしたの」
どうもその声の調子は、私を喜んでいるようには思われなかった。
「今夜お伺ひしてもよいと仰いましたね」
「そうでしたわねぇ、私うつかりして忘れていました」
この一言で、前夜来いろいろ考へた楽しいもくろみや一切の希望は根底から覆ってしまいまし た。昔だったら座を蹴立てて帰ってしまうところです。しかし今では流石にそんなことはしませんでした。 私たちは家の中に入りました。
梅葉は何か気がかりな事でもあるらしく、誰かうるさい男につきまとわれてうんざりしてゐるようにも思われた。私は一体どうしたらいのか何と云っていいのかわからなかった。
マルグリットは寝室の方に行く。私はぢっとそこに立っていた。
「こっちへいらっしゃいな」彼女は私にそう云った。
彼女は帽子をとりビロードの羽織りをぬいで布団の上に投げだした。そして夏のはじめまで火の気を絶やさない暖炉のそばの安楽椅子に腰をおろした。 そして時計の金鎖をいぢりながら私に云った。
「ね、何変わったお話をして下さらない」
「何にもありません。ただ私は今夜お伺いしなかった方がよかっただろうと思いますが」
「なぜ?」
「でも何だかあなたは迷惑のようだし、それに私がいてはきっと退屈でしょうから」
「そんなことないわ。 少し身体の具合がわるいだけなの。今日いちにち苦しみましたわ。 ゆうべ寝られなかったものですから、ひどく頭痛がするの」


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