椿姫の「第2話」

「そんなら、あなたは私の看病をしてやると仰言いますの」
「ええ」
「そんなことなさるの何と云ふのでしょう」
「献身です」
「そんなら貴方は私を愛していらつしやるのね。そんならそうと仰言いよ」
「それはそうかもしれません。しかし早晩打明けなければならないとしても、それは今日の事ではありません」
「そんなこと一生仰言らない方がいいわ」
「なぜ?」
「なぜって、そんな告白をなされば、結果は二つしかありませんもの」
「どんな結果です」
「第一に、もしわたしが貴方の心にはないとすれば、あなたは私をお怨みになるでしょう。第二には、もしわたしがあなたのお心に従へばあなたは陰気な病人を持つことになるでせう。神経質で病身で陰気なお荷物を。血を吐いて年に五萬両も無駄づかいする女ですもの。あなたのような若い方にはとてもたまらないでしょう。公爵のようなお年寄の大金持にはいいかもしれませんが」
私は黙って聞いていた。懺悔に近い彼女の告白、金色燦たるヴェールの下にかくされ痛たましい生活。その生活から逃避しようとして、この哀れな娘が放逸・絢爛・眠等々を求めて いることーーそれらのことが余りに深刻な印象を与えたので、私は一言も口を利くことが出来なかった。
「子供のやうな愚にもつかないお喋りをしてしまいましたわ。さあ手を貸して頂戴、食堂へ参りましょう。私たちがいなくなったのでみんなどうしたのかしらと思つているでしょうから」
と梅葉は云った。
「あなただけ、お出で下さい、僕はここに残っていたいのです」
「なぜ」
「何故って、あなたに陽気に騒がれると私は心苦しくつてたまらないのです」
「では私、陰気にしていましょう」
「梅葉、私に一言云わせて下さい。 こんなことあなたにしてみれば耳にたこが出来るほど聞き飽きて本気にしないでしょうが、これはどこでも真実なのです」
「それは?」
彼女は子供の冗談をきいている若い母親のように微笑して云った。
「あなたをはじめてお見うけしてから、あなたは私の生活にとって抜きさしならぬものとなってしまいました。考えまいと思へば思ふほどあなたのお姿は目先にちらつくのです。二年ぶりで今日、あなたにお目にかかって、私の心は一層激しくあなたを愛してゐることを知りました。 そしてこのように貴女にお近づきになって、あなたの生活の細部まで知ることの出来た今、もう貴女は私にとってなくてはならぬものになってしまいました。ですから、あなたが私を愛して下さらないと云ふばかりでなく、もし私があなたを愛したいままにあなたを愛させて下さらなければ私は狂人になつてしまうでしょう」
「あなたは不幸な人ね、第一あなたは素適なお金持なのね、と皮肉な云ひ方をしなくちゃなりませんわ。妾は数百両づつ毎月無駄遣いしますし、これだけはどうしても私の生活に必要だと云うことをあなたは御存じないのです。あなたは私のために見る間に破産してしまいますし、あなたのお家でも私のような女と一緒に幕すことは大反対でしょうし、ですから、どうか、いいお友達として私を可愛がって下さいね。それ以外は、あなたは私に遊びに来て頂戴、そして一緒に笑ったりお話したりしましょうよ。でも私を買被らないで頂載、私なぞごく下らない女なのですから。あなたはお優しいわ、でも私たちの社会へお顔を出すにはあんまり若すぎるし、情に脆すぎるのよ。それよりどこかの奥様にでも可愛がられた方がいいのよ。何でも正直にお話してみるつもりなのよ、よくわかって下さるわね」
この時、突然お染が図の上に姿を現して叫んだ。
「あら驚いた、二人で何してるのよ」
見ればお染の髪はしどけなく、着物の前ははだけていた。 右衛門の仕業だと私は見抜いた。
「わたしたちはまじめな話をしてるのよ、だから暫くこうしといて頂載、今すぐ行きますから」
と、梅葉は云った。
「わかったわよ、ゆっくりお話なさいね」
お染は戸をかたく閉めて出て行った。
「じゃ、これで話は決まりましたわね、もう私を愛するなんて仰らないでね」
と梅葉は云った。
「では私は失礼して帰ります」
「それほどまでにあなたは私を思っていらっしゃるの」

私はすっかり、この女に夢中になってしまった。
彼女は陽気でもあるし、淋しいところもある。 純潔かと思ふと笑いもする、病気のせいか物に感じやすく、神経は苛々している。 それやこれやを考へ合すと、よほどこの気紛れな浮調子な彼女の性質をうまく制御してかからぬことには、私の物にはなるまいと云ふことが分った。
「そんならあなたの仰ることは真面目なのね」
「真面目ですとも」
「それでは何故もっと早く言って下さらなかったの」
「いつあなたに申上げればよろしかったでしょう」
「日本橋の歌舞伎座であなたを紹介していただいた翌日ですわ」
「あの時ならお訪ねしたって、ひどい仕打に逢ったでしょうよ」
「どうして?」
「でも前の晩に馬鹿げたことをしたばかりですから」
「それもそうね。けれどあの時からもう私が好きだったの?」
「そうです」
「でも芝居が終わると家へ帰って、直ぐぐっすり眠れたでしょう。それが真剣な心と云ふものなのね」
「ところが大違い。日本橋へ行った晩、私がどうしたか御存知ですか」
「私は茶屋の入口であなたをお待ちしてました、私はあなたがた三人の馬車のあとをつけました。そしてあなたがたった一人で馬車から降りて、ひとりで家の中へ入るのをみたときには、ほんとに嬉しかったのです」
すると梅葉は笑い出した。
「何を貴女はお笑ひになるんです」
「何でもありません」
「どうか仰言って下さい。お願いですから。でないと又あなたに馬鹿にされてゐるのだと思ひますよ」
「あなた怒らないでしょうね?」
「怒る権利は私にはありません」
「それではよござんす、一人で帰ったのには訳があったのです」
「どんな訳です」
「ここで待つてゐた人があったのですの」
もし彼女が短刀で私の胸を刺したとしても、これほどひどいを傷を私に与えはしなかっただろう。 私は立ち上がった。そして手を差しのべて、「さよなら」と云った。
「このお話をすれば、きっとあなたはお怒りになると云ふことは私ちゃんと存じて居りました。 男の方と云ふものは、自分が嫌な思ひをするに決っていることを聞きたがるのね」
と彼女は云った。
私はすっかり興ざめしてしまったやうに冷かに云った。
「しかし、私は決して怒ったのではないんです。 ちょうど午前三時に私がお暇して帰るのに何の不思議もないtぎうに、その時、誰かがあなたを待ってたと云ふことも当たり前のことでしょう」
「では、どなたかお宅であなたを待っていらっしゃるの」
「いいえ、でも私はお暇しなければなりません」
「では、さようなら」
と彼女が云ひました。
「あなたは私を追い立てようとなさるのですね」
「いいえ、決してそんなことありませんわ」
「ぢゃ何故そんなに私を苦しめるのです」
「どうして私があなたを苦しめましたの」
「誰かがあなたを待つてゐたのだと、たった今、私に何言ったでしょう」
「でも、ひとりで家へかえるのにはちゃんと訳があるのに、あなたが、それをみて、そんなにお喜びになったと思ったら、可笑しくって笑わずにはいられないぢゃありませんか」
「人間と云ふものは、時々子供らしいことを喜ぶものなのです。そのまま放っておけば、あとまで幸福いられるのに、むざむざその喜びを破壊してしまうなんて意地が悪いと云ふものです」
「しかし、あなたは現在誰を相手にしてゐると思っていらっしゃるのよ。 私は処女でもなければ公爵夫人でもないのです。あなたとは今日はじめてお知合になったのですし、なにもあなたにつべこべ言われる筋合もないわけでしょう。もし仮に私が、いつかあなたの恋人になるにしても、 あなたの外に、恋人があったと云ふことはよく承知しておいて頂きたいわ。今から妬いていたんぢゃ、この先々どうなると云うんでしょう。私あんたみたいな方、見たことないわ」
「それは、今まで、私のやうに真剣にあなたを愛した男がひとりもいなかったからです」 「それぢゃ正真正銘あなたは私を愛していらつしやるの」
「私は全身全霊であなたを愛していたと信じています」
「そしてそれは何時から」
「三年前、あなたが馬車から降りて呉服屋にお入りになるのを見た日からです」 「嬉しいわ。そんなにまで思っていたといて、何とお申し上げたらよろしいでしょう」
「少しは私を可哀想と思って下さい」
彼女は私と話の間中、終始半ば嘲るやうな微笑を洩らしていたが、どうやら私の情に絆(ほだ)されて来たようであり、私としては長い間待ちに待つてゐた時が近づいて来たやうに思はれた。私は心臓の鼓動が烈しくなって、口もきけないように思われた。
「そうねえ、でも公爵がね」
と彼女は云った。
「何もわかりゃしませんよ」
「もしわかったら?」
「許してくれますよ」
「いいえ、どうしてきっと私棄てられますわ。そしたら私一体どうなるでしょう?」
「棄てられる危険ならあなたはもうとうの昔にそれを冒してみますよ」
「どうして、それがあなたにわかるの」
「だって貴女は先刻、今夜は誰が来ても入れないように云いつけなすったでしょう」
「そりゃそうよ。でも右衛門さんは真面目なお友だちですもの」
「こんなに遅く戸を締めて誰も入れないようになどと仰るからには、友だち扱ひと受けとれませんね」
「そんなこと言って私を苛めるものぢゃないわ。あなた方ーーあなたと右衛門さんをお招きするためだったんですもの」
私は次第に梅葉に近寄って、自分の両手を彼女の腰の周りに廻した。 すると組み合わせた私の手の上に、彼女のしなやかな体の重みが、かるやかに掛るのがわかった。
「もし私がどれほど貴女を愛してるか、わかって下すったら」
と私は囁くやうに云った。
「ほんとう?」
「誓います」

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