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5、産業革命期の日英からわかる人口転換

ではなぜイギリスと日本は産業革命が起きた時期に違いがあってもそれを契機に人口が増えていったのか。

まず人口の変遷は基本的に三つの段階があるといわれている。第一段階は多産多死型。出生数も死亡数も高い状態である。特に新生児、乳幼児の死亡率が高いため人々は多くの子供を産もうという心理が働く。江戸時代の平均寿命が40歳ほどであったという衝撃的なデータがあるが、これは新生児、乳児死亡率が高かったために大きく平均が下がったことが数字に反映されており、実際60、70歳で天寿を全うした人も多く存在したと考えられている。ここから経済の活発化による衣食住の改善、衛生環境の整備が起きることで第二段階の多産少死の段階に移行し、爆発的に人口が増加する。多産の状態が維持される要因は多産多死型時期の多くの子供を設けようとする風習の名残があるからだと考えられている。ここからさらに医療水準、識字率の向上、避妊に関する知識の浸透によって第三段階の少産少死型に移行する。この第三段階で人口増加が目立たなくなり静止人口へ近づき少子高齢化社会を迎える。多産多死から多産少死を経て少産少死へ収束する現象は人口転換と呼ばれており、移行期の明確な指標が近代化である。

つまり現代に至るまで死亡率が低下を続けたことで人口が増加してきた。歴史人口を見ると子供がたくさん産まれてきたから人口が増加したというよりは、人間が命を落としにくくなったから人口が増加したといえる。これは疑いようのない普遍的な事実であり歴史上出生率は基本的に減少傾向であり上昇した時期は少ない。この人口転換は20世紀前半複数の学者によって提唱され、人口学の視点から近代化が低出生率を招く関係を説明する唯一の普遍的な理論である。

近代化が低出生率を導く要因として主に死亡率の低下によるものと経済水準の向上によるものの二つの意見がある。死亡率の低下が低出生率を招くという理論はあまり受け入れられなかったが途上国、先進国問わず各国のデータで普遍的な正当性を確認できており、特に乳幼児死亡率の低下が多く子供を産む必要性を失わせたと考えられる。

後者の経済水準の向上が低出生率を招くというのは子供という存在に対する認識の変化だ。中世の社会では子供というのは小さい大人であるというのが一般的であり現代のように手厚い庇護下に置かれることはなかったという。子供を作るというのは労働力の確保と同義であり一世帯で多くの子供を為した。しかし近代化によって社会はより複雑化、不透明化し個人が豊かに生きてゆくためには文字の読み書きを前提とする知識や技術を習得する必要性が生まれたのである。そのため教育の重要度が高まり子供は配慮が必要な存在であるという価値観が生まれ、子供に費やす教育コストが増大したのだ。子供は肉体労働としての経済的価値を失い、近代化によって「量から質へ」考え方の転換がもたらされた。そして避妊技術が向上することによって、性欲を満たすため性交を行い結果的に子供が産まれるという因果関係が極力切り離され、性欲を満たすことを単なる娯楽として享受できるようになったのだ。

イギリスではこの人口転換の過程が比較的顕著である。1750年から急激に死亡率の低下が起き、1750年に多産多死から多産少死に移行したと確認できる。そして1880年には1750年に低下した死亡率がさらに低下、さらに出生率も急激に低下し、1880年に多産少死から少産少死へ移行したと考えられるのだ。日本も遅れたがイギリスとは似通った動向を示している。江戸時代初期と明治維新の人口増加はイギリスと同じ要因と考えられ日本では明治維新から終戦まで多産少死であり戦後1950年辺りで少産少死へ移行したのだ。しかし日本ではイギリスに見られない特異な点がありこれから触れていきたい。

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今年の3月、4月にコロナ禍真っ只中で暇なテルが書いた人口問題に関する論文じみた文章です。人口や少子化という概念を歴史的に分析し、主に人口と…

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