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Web2.0の見直しとインスタのグリッドに見る同質化。それからWeb3.0

先日、ボスからフィードバックをもらった。内容は、僕は結論に至るのが早いが、その途中の論理の積み重ねの説明を端折っているため、聞いている人が議論についていけないことがある。というものだった。これ、よく指摘される。とても分かりやすい資料を作る同僚があり、彼と資料作りを会話しながら実施したけれど、僕には無い着眼点がいくつもあった。コンサルタントから技術営業へ異動してきた甲斐がある。

長いことコンサルタントをやっていると、ちょっとスマートに見えるようにしてやろう、という考えが浮かんでくることがある。何しろ前職のコンサルティングファームもマウントの取り合いだった。難しい表現を使って、したり顔で説明するコンサルタントに対して、論理的な矛盾を指摘したり、あるいは感情的な表現を使ってみたり、俺の方が頭がいい。いったい何と戦っているのだろうか。ともかく2000年問題を経たITコンサルティングの界隈は、そうした空気だった。

技術営業に社内ジョブチェンジをしたのは2年程前、今もタイトルとしてコンサルタントだけど、技術営業として分かりやすく伝えることが求められている。なにしろ場合によっては興味のない人に自社製品の良さを知ってもらい、買ってもらわなければならない。B2Bのソフトウェアを販売しているのでソリューション型の営業になる。独りよがりで居られない。冒頭のフィードバック、日々学習のチャンスが転がっているものだなと思った。

こんなことを思ったのは、次の記事を読んだから。平易な言葉で、とても分かりやすい文章を書くな、と思った。


Web2.0とは、ティム・オライリー(Tim O'reilly)の論文に依拠する。

論文の中では
(1)ユーザーの手による情報の自由な整理
(2)リッチなユーザー体験
(3)貢献者としてのユーザー
(4)ロングテール
(5)ユーザー参加
(6)根本的な信頼
(7)分散性
などを、Web2.0の特徴として挙げていました

当時のWeb活用を合わせたような動きをWeb2.0として括っていた。

当時から15年以上経った今、Web2.0とは何だったのかを考えてみると、シンプルに「ユーザーの参加率の劇的な向上」なのではないかと私は思っています。

これらを総じてソーシャルネットワークの時代としている。

記事にもあるけど、90年代半ばのインターネット黎明期は、発信する人が少なくてインターネットよりもBBSの方が有益だと言われていた。ここでいうインターネットはwwwのこと。僕はwwwも見ていたけれどnews (NNTP)をよく見ていた。

技術ハードルが下がると、情報発信する人が多くなる。商業が絡むと、情報発信が偏ってくる。

投稿が増えると、人気があるもの(ランキング上位)にユーザーが集中し、人気コンテンツはより人気が高まります。制作者も、人気が出そうなコンテンツを投稿しようと考える。そうすると、同じようなコンテンツが増えていくという現象です。

みんなが修正できるWikipediaやオープンソースソフトウェアを引き合いに出して、参加者への信頼が、そうした物事の発展に寄与した。広くオープンソースが使われるようになったのは、多くの知恵によって改良、改善が組み込まれ、アイデアが形になっていった。活用にあたっても、有益な情報が情報発信によってもたらされた。

正直、「根本的な信頼」は、ネットに参加者が少なかった時代には成り立つ、くらいの話なのかも……。「集合知」とかがもてはやされてた時代だったけど。

技術発展による情報発信のハードルの低下によって、むしろ信頼性が損なわれたのではないかという問題提起がなされている。

www/html は研究結果を整理し共有しやすいようにとつくられた。当初の主要な利用者だった研究者や開発者は同質性が高かった。何かコンフリクトが発生したとしても、それを解決するような力が働いていた。故に炎上することが少なかった。

Web 2.0は情報発信者の多様性をもたらし、難しい問題がネット上でも出現したことになった。ただし、炎上がネガティブなわけでもない。

多様性ある組織で議論すると話はまとまらないし、ストレスフルだけど、やってみると課題の正解率は高いらしい! 多様性が低く固まった組織だと、正解率は低いけど、回答への自信度は高くなるという研究が、「多様性の科学」に書かれていました。

この本も読まないと。


フィルターバブルがインターネットユーザーの分断を冗長している。ただし、分断が起きていると見えるのは、それが目立つからであり、大抵の人はうまくやっている。まるで、日和見菌のような感じがするが、人間も含めた自然の動きとはそうしたものなのかもしれない。

実際には多くの人はもっとバランスがよくて、柔軟に意見を変えたりしている

こんな風な人々を導いていくのは既にAIなのかもしれないという指摘。

今では、ユーザーを信頼する」というよりも、アルゴリズムが信頼性を調整する、という感じになっているかもですね。

ただし、そのAIをハックして、裏返しの操作を試みているというヒト・シュタイエルの映像作品は示唆深い。

さて、Web 2.0は情報発信のハードルを下げることで、ネットユーザーの多様性を築いた。ソーシャルネットワークの生成するコンテンツ、Webの情報をアルゴリズムで味付けして検索結果を作り上げてくれる検索エンジン、欲しいものだけが陳列されているECなど、ユーザーのニーズに応えることで、ユーザーを獲得し、さらに巨大化していった。まさにリオタールの言っていたデータが巨万の富を生み出す時代になった。

巨万の富は巨大なプラットフォーマーが独占するに至っている。ここが、Web 2.0とWeb 3.0の分水嶺、ただし、まだまだ頼りなさがある。

Web3は、貢献者全員への分配を前提にした構造になっているんですね。

これはブロックチェーン / 暗号資産がシェアを目的としている点を上げている。本来であればGAFA(すでにMetaだけど)は、ユーザーと利益を共有するべきであるだろう。

Web3の思想をWeb2.0企業にたとえて言うと、「Googleの検索の質がいいのは、私達のデータを使っているからだ、だから検索を使っているユーザーの50%がGoogleの資産の権利を持つ」みたいな世界観ですね。

Web 3.0に頼りなさを感じるのは、次のような点。現代アートを研究する前は、技術にフォーカスしていた。クライアントの要望 / 困ったに基づいて技術を使って解決していく。

Web3はどちらかというと「技術的にこういうことできるよね」という話が先行している。実現が無理そうな話にすら多額のお金が集まったりしていますね。

期待としてのファンディング。マルチプルの経済だ。



Web2.0企業であるGoogleやAmazonがネットを席巻して以降は、Webの景色、画面の中の風景はほとんど変わっていない気がするんですよね。みんなが使うサービスは固定化していて、富はGAFAを中心としたプラットフォーム企業に集中している。

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Tsutomu Saito
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