以前、セス・プライスとMOMAのキュレーターの対話についてnoteを書いた。その元となるようなドキュメント、DISPERSIONを読んでみた。そのメモを残しておきたい。
セス・プライスは、ポスト・コンセプチュアル・アーティストとして紹介されている。1970年代前半生まれで、アラフィフのアーティスト、二コラ・ブリオーが紹介した一連のアーティストよりも下の世代、ニューヨークに在住している。
コンセプチュアル・アートとは何であるか?
難しい問いかけであるが、セス・プライスは、難解だが簡易なテキストで言い表している。この引用の前段にはコンセプチュアル・アート(アーティストかな)をからかうようなテキストもある。
厳密な定義に拘ると議論の本質が落ちてしまうのではないか。アーティストに限った話ではないけれど、仮や、前提を置いた上での議論、思考展開などを日本では、もっとするべきだと思う。イメージしずらいかもしれないけれど、ニューヨーク出身でファッションビジネスの修士を持ち、日本で暗号資産のスタートアップを起こしたこともある僕の英会話トレーナーは、日本人は細部に拘り過ぎると言っている。つけ麺を英語でなんというか迷っていたら、麺をスープに入れて食べたら、ラーメンもつけ麺も区別なんかない。ニューヨーカーは、どちらもラーメンと呼ぶ。ですって。
前の引用にあった”揺れを引き起こすもの”エッジが前衛的であるが、領域を行ったり来たりしているうちに、本人にも分からなくなることがある。
過去100年のアーティストは、このコンセプトと戦ってきたと続く。デュシャンから始まったと見るべきか、それ以前からあったと見るべきか。恐らく後者なのだろうけど、こうした事を結晶化したのは前者だと思う。
スミッソンの有名なランドアート《Spiral Jetty》は、ダイア財団に買い取られた。ダン・グラハム設計のカフェに作品の写真を控えめに設置し、所有権を上品に主張している。としている。
ここにランドアートとNFTの共通項を見ることができそうだ。
日本の土地の所有権を考えてみたい。所有者は土地の利用を公共良俗には従う必要があるが、建物を建てることや売却することなど好きに処分していいことになっている。しかしながら、毎年固定資産税を納める必要があり、自分が所有しているにも関わらず、国から借りているような感じである。そもそも国土と自分の土地との不思議な関係もあるが、実際には土地の所有権というのは催眠なのかもしれない。
アメリカの土地事情には詳しくないが、ランドアートを額縁に入れてしまっておくわけにもいかない。土地を占有利用できるという所有権を持って作品を所有するのか、あいまいな話にも発展しかねない。
NFTの所有権はデジタル上のアセットに関して認められるのか、認められないのか。コンピュータはデジタルアートを表示する際に、表示するデバイスにデータを呼び出す必要がある。0と1で表現できるデジタルアートは、NFTマーケットプレイスのストレージから呼び出され、ネットワークを通り、呼び出し元のデバイスのストレージやメモリに展開される。動産のようにも見えるが、動産は移動可能な装置だろうし、コピー可能なものに資産性を認めるのかは微妙な所だろう。これを所有しているのは自分である。誰もがカフェに作品を提示することはできないが、ソーシャルメディアのアイコンに提示することはできる。NFTが連れてきたものは、権利に関する疑問だろうと、ずっと考えている。
絵画に関する指摘が前出していた。絵画はどこに掲げられようと疑いようのない芸術品であり、作品そのものが芸術を主張している。1970年代のコンセプチュアルアートに代表されるムーブメントは、こうした芸術性を疑う活動が少なからずあった。
そのうちのひとつ、印刷物としての作品の流通について議論が展開されていく。印刷物に限った話ではなく、広告や、技術伸展によるビデオ・アートなど、一度始まったら歯止めが効かない。
まだ、物理的なペーパーバッグは回収できそうだ。それらは目に見えるから。ソーシャルメディアに流通してしまったら、回収は不可能に近い。まるで、2022年のNFTのことを示しているようでもある。
20年前に書かれたテキスト、アメリカではドットコムバブルがはじけたあたりだっただろうか。会社名の後ろにドットコムとついた会社が量産され、様々な夢を語り、多額の資金を集めた。バブルの崩壊とともにドットコム企業も資金も消えていった。そうした失敗ではなく、間違いなく起こるであろうデジタル習慣へのシフト、それを指摘しているように見えてならない。