伊藤雅浩「絶対写真論 アルゴリズム・オブジェクトとしての写真へ」読書メモ
写真は、かくも深遠なものなのか。
何が写真となるのか。写真を取り巻く技術や考え方の変遷を捉える。
伊藤雅浩の絶対写真論
カメラでの撮影、現像、プリントが技術の進化や、アナログからデジタルへのシフトよって、技術から操作へと変遷してきた。撮影にあたり専門スキルが必要ではなくなる。つまり、デスキリングが行われた。
フルッサーの言葉を引用し、カメラの操作者(いわゆるカメラマン)ではなく、カメラを作った技術者がアーティストと呼べるのではないかと問題提起する。そこに疑問を持ち、それならアルゴリズムを作れば、写真を生成することができるのではないか、つまりアーティストになれるのではないか、そこがモチベーションとして語られる。写真をアーティストの手に戻す行為、それが絶対写真論のエッセンスだろうか。
デジタルカメラになって、写真はフィルムからデータになった。プリンタで誰でも簡単に印刷することができる。今では焼き増しなんて言葉は死語でしょうね。
デジタルアートに対する批評などから、ペシミストな印象を受けるが、読み進めていくうちに、ふつふつとした情熱があることを感じる。
JPEG画像の配列部分をアルゴリズムにより、ずらし、人間にとっては意味のない画像を提示する。
ミスをすることで、偶発性を誘発するのだろうか。
確かにJPEGフォーマットとして認識されないフォーマットまでデータを壊してしまえば、コンピュータは壊れたファイルとして認識する。指示されたものを指示された通りに実行するのがコンピュータプログラム、これを冪等性と呼ぶが、一回実行した操作も何百回と実行したとしても結果が同じでなければならない。
写真というアウトプットに疑いを持つこと。写真を撮影するという技術についてひとつひとつ丁寧に、それはどのような意味があるのかを検証している。そうして技術進歩によって複雑になってしまったカメラやアルゴリズムを読み解き、現代において写真とは何かを突き詰めていく。ストイックである。カメラの機能やレンズの特性、カメラの操作方法、機材やスキルをそぎ落としたとき、純粋な写真が立ち現れるのではなかろうか。
アルゴリズムによる選好は、バイアスではなく均質化をもたらす。写真についてもそれが言えることを「Chapter6 オートマチゼーション」で示している。TikTokを引き合いに出すまでもなく、現代の消費者はアルゴリズムに支配されている。音楽でいえば、80年代のヒット曲のリバイバルは、Spotify などのストリーミングサービスのアンチテーゼとしたコラムを見た。古い音楽を聴くことは、文化的な低迷になると警鐘を鳴らすコラムは、写真にも当てはまるのだろうか。機械学習の進展によって鼻歌から楽曲を作ってくれるツールまでできた。ただ、音楽を作るというのはカメラで撮影するほどにはデスキリングはされていない。
なんでも収益化することの影響だろう。
そして、写真には新たな技術が必要になったと捉えられる記述が続く。恐らく撮影や現像などと分けるために修整・編集としていると思われるが、これも技術と考えられる。そして、バズる写真とは何かという点も技術だと捉えられるが、そこまでいくと果たして写真に関する事項といえるだろうか。
技術から操作への変異は民主化として歓迎されるべきものかもしれないが、先の音楽の例にあるように、文化の消失とも捉えられるのかもしれない。
カメラで撮影する、複雑に高度になった現代のカメラを使って撮影することはカメラを作った技術者による絵作りであるだろう、アーティストである著者がそこを取り戻そうとする試行錯誤、ただし、精神論だけにとどまらない。精神論だけでは乾いていってしまう。そのことをマレーヴィチの<白の上の白>を引き合いに出しながら説明していた。
前提を疑う、当たり前と思いこまずに拘る。アート思考に潜むビジネスへのヒントのひとつだと思う。ビジネスがアート思考というが、アート・ワールドにも十分にビジネスがある。お互いが領域を分けるのではなく、軽やかにステップしていきたいものである。