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フィル・ナイト 『SHOE DOG』 読書メモ

ナイキと日本は深い関係がある。このことを知っている人はどれだけ居るだろうか。本書はナイキの創業者、フィル・ナイトの自伝。数年前からオニツカタイガーがリバイバルしているが、リバイバル前のタイガーをアメリカで売りまくっていた話、多少物語に冗長さがあるけれど、大量の日記から本書を綴っているものと思われる。いわゆる創業者の立身出世本。ページの下に西暦が書かれていて、当時がどんな様子だったか知ることができるのも興味深い。
シュードッグとは、寝ても覚めても靴のことばかりを考えている人のことを言う。もちろん話すことも靴のことばかり。

日経新聞にNIKEが取り上げられていた。読まなきゃならないと思っていたシュードッグを改めて手に取る。なにしろ500ページを超える大作。

西部の開拓、オレゴンの街道について語る文面、ただし、その言い方は既に過去のもののような扱いをしていた。物語は1962年から始まる。

それは私たちの特性、宿命、DNAであると。「臆病者が何かを始めたためしはなく、弱者は途中で息絶え、残ったのは私たちだけだ」と彼は言うのだった。(P.2)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

これはNFTマーケットプレイスがワイルドウェストだと表現していたことに通じる。強者が生き残る。


アスリートになれなくても、アスリートと同じような気分を感じる方法はないだろうか。仕事ではなく、常にスポーツをプレーする気分を味わう方法はないだろうか。あるいは、それに近い気分を味わえるほど仕事を楽しむ方法はないだろうか。(P.5)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

1962年のアメリカは、アメリカ人の90%が飛行機に乗ったことが無かった。今よりも世界は広く海外に旅に出るというのは特殊なことだった。アメリカ人が日本に行くことはとんでもないことだった、と。太平洋戦争の記憶が鮮明に残っている祖母が語る。それでも友人のカーターと一緒に旅をする。世界を。

空襲により廃墟になった東京、崩れそうな宿、東京見物の前に仏教と神道を勉強し、禅についても理解を深めていた。本書全編に渡ってだが、フィル・ナイトの教養の深さと広さに驚く。東京の神社に座って瞑想していたら、空になり、俗世間を見たくなる。東京証券取引所に行く。野戦病院のような取引の様子を見て、お金を超越した存在になりたいと考えた。行動と、感想と、そこから感じる柔軟性、後付けの物語的な記述かもしれないが、この後の彼の業績を考えると割り引いて捉えてもいいと思う。

神戸のオニツカを訪問する前に、日本人とのビジネスについて、日本で15年もビジネスをしていた元米兵からのアドバイスをもらう。

間接的に表現する文化なんだ。誰も君を叩きのめしはしない。直接ダメだとも言わない。かといってイエスとも言わない。彼らは輪になって話し、明確な主語とか目的語とかを言わない。落ち込まなくてもいいが、調子に乗ってもダメだ。散々だったと思ってオフィスを出ても、向こうは契約に乗り気なのかもしれない・契約を結んだと思ってオフィスを出ても、実は断られていることもある。本音がどうにもわからないんだ(P.34)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

このアドバイスが良かったのか、当時の広すぎる世界が原因だったのか、オニツカの訪問はうまくいき、アメリカでタイガーを売る権利を得た。

その後は短いページで、香港、フィリピン、バンコク、ベトナムなどの様子が記されている。当時のアメリカ人の青年が見たストレートな表現、ベトナム戦争前夜の様子などは緊張感が漂う。
旅はインドからアフリカ、エルサレムからヨーロッパ諸国へと続く、その土地毎の宗教からの引用、そして彫刻の足元、とりわけ靴に関心がいく。フィレンツェでダンテをたどってみたり。アジアの貧困と東ベルリンの貧困の違いを書き留めたり。東ベルリンで出会った女の子はダンボールの靴をはいていた。

文化、宗教、政治に関する深い教養、戦争は嫌いだが、戦争の記録や敗戦調印の記録は好んで読んでいる。チャーチルからの引用もある。スタンフォードのMBAを持っているし、会計士としてプライスウォーターハウスで働いていた。

世界の各地で、その空間を感じるが、当然ながら時間は別の流れ

何かを体験するときに無手で自分の感覚を大事にしたいという意見がある。それもひとつの楽しみ方であるが、背景となる物語、思想や歴史の出来事を知った時に、その体験が何重にも多層化する。見た目の興奮はもとより、思考の興奮、飛躍というのは何物にも代えがたい貴重な感情をもたらす。それは教養によっても、もたらされると考える。


1963年2月24日、25歳の誕生日。私はクレイボーン・ストリートの自宅に戻った。(P.53)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

世界一周旅行は父親からの資金援助だが、それだけでは資金が尽きてしまう。ハワイで職を得て訪問セールスを行う。ただ、ハワイで売っていたものとシューズとは別格であったようだ。

シューズの販売はなぜそれらと違ったのだろうか。セールスではなかったからだ。私は走ることを信じていた。みんなが毎日数マイルを走れば、世の中はもっと良くなると思っていたし、このシューズを履けば走りはもっと良くなると思っていた。この私の信念を理解してくれる人たちが、この思いを共有したいと思ったのだ。(p.80)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

ビジネスを創るものにとって、最も大事なことのひとつ、信念。起業家は、あえて苦難の道を歩く。

信念だ。信念こそは揺るがない。(p.80)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

神戸での(靴のカリスマ)オニツカ氏との対面、彼は誰もがアスレチックシューズを履く未来がくると語っていた。

アメリカでオニツカタイガーを売り込む宣伝文句には、日本がヨーロッパの独占市場にチャレンジや、そのシューズが低価格であることが示されていた。販売価格は仕入れ値の倍くらいだったと思う。取引の連絡は手紙、ビジネスのスピードは週単位に見える。日本へのシューズの発注の手紙、委託したセールスマンからの手紙、それに対する反応も手紙、タイプして封筒に詰めて、切手を貼って投函する。字面から想像するしかないが、大変なビジネスだったのだろう。実際にサプライチェーンが滞って、キャッシュフローの危機を何度も経験している。

この数年後に、情報の時代が来る。そう予言したリオタール


もっと日常に関心を持つべき。オニツカ氏とバウワーマンとの会話。

インスピレーションは日常のものから湧いてくることを彼は知った。食べるものとか、家の周りにあるものとか、ヒントはそこら中に転がっている。(p.123)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

オニツカ氏と意気投合したバウワーマンは、自身のトレーニングの研究、日本人とアメリカ人の足は違う。ソールの形などのアイデアを熱心に神戸に送り、タイガーの試作に情熱を注いだ。バウワーマンはシューズだけでなく栄養についても研究した。ランナーがどのような栄養を摂取すればよいのか。彼の熱心な実験結果としてうまれたのがゲータレードだった。足腰への負荷を低減する目的で研究したポリウレタンも彼の発明だという。

バウワーマンは、エリートのオリンピック選手だけがアスリートだとみんなが誤解していると常にこぼしていた。だが、彼が言うには誰もがアスリートなのだ。肉体があればそれでアスリートであるという持論を、彼はさらに多くの人に広めようとした。(p.126)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

従業員第一号のジョンソンは、顧客との対話、適切なコミュニケーション、製品に対するフィードバック、改善の試行錯誤、そうしたものがタイガーをよりジョギングシューズとして洗練させていく助けをした。その当時はランナー、ジョギングがスポーツとは認識されておらず、知識の蓄積がなかった。走ることによるトラブル、ケガなどの対処方法も一部の人にしか知られていなかった。ジョンソンからの情報の提供と顧客とのコミュニケーションは、顧客それぞれに管理される。後にCRM(顧客関係管理)と呼ばれる概念をマメな性格によって実践していた。ただ、こうしたことは江戸時代の日本に既にあった。それは大福帳と呼ばれていた。

伝説的なコーチ、バウワーマンの書いた本が100万部を記録した。『Jogging』という100ページ足らずの本が売れた。なんでそれが売れたのかは分からないが、ジョギングがそれまでの奇行的な、カルトなイメージから一変し、クールなものになった。周縁がいきなり中心になる。機運の到来。時代の波を読むのか、仕掛けるのか、超越者にはそういうことが分かっているのかもしれない。


キャッシュ・フローは火の車だが、手塩にかけたブルーリボン、フィル・ナイトは、会社が生きて呼吸しているという。多孔質で呼吸をしているという表現は屋上の展覧会でも使われていた。

多孔質と呼吸についての言及。西洋における呼吸とはどのようなものなのか、毛穴もひとつのキーターム。文字面通りに捉えていいのか、他意があるのか、修論では結論にまで至らなかった。しばらく探求は続きそう。


物語は1969年。自身の結婚の話、日本への出張の話、その時にオニツカ社が主催した淡路島で行われたバーベキューに参加したこと。在庫購入資金捻出のためにパラレルワークから、ブルーリボンに専念することにしたこと。

この辺りで広告の重要性が増してきた。

メキシコで行われたオリンピックの特徴的な出来事。

永遠にその名を留めることになる、ジョン・カーロスとトミー・スミスの抗議行動の瞬間についてだった。アメリカ国家「星条旗」が流れる中、表彰台に立ちながら、2人は頭を下げ黒い手袋をした拳を上げるという、ショッキングなジェスチャーを見せたのだ。人種主義、貧困、人権侵害を訴えての抗議であり、閉会後も避難の的だったが、バウワーマンは予想どおり彼らを支持した。バウワーマンは全てのランナーを支持する男だ。(pp.197-198)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

この抗議活動の最中、シューズを履かなかった。スタンドに置かれたプーマがメディアに露出していたが、これがプラスなのか、マイナスなのか、ナイトもバウワーマンも分からなかった。これはNIKEのスタンスの萌芽に繋がるのではないかと思った。スタイルからスタンスへの変化については、この本に詳しい。

スタイルからスタンスへの転換は、並大抵のことではない。

ナイキを履けばカッコいいと思ってくれている。(p.441)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

現在はスタイル以上に、社会問題に対するスタンスが問われている。それがパーパスであるという。これは資本主義に対する修正の力なのだろうか。パーパスについては企業が最近注目しているが、企業人には、こちらの本の方がウケがいいみたい。


このオリンピックではスポーツメーカーがアスリートと契約する兆しもあった。

アスリートに金が払えればいいんだが。合法的にな(p.200)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年



1970年、サプライチェーンの問題、注文したものが注文通りに届かない。品物がなければ売上も立たない。売上が立たなければ支払もできない。キャッシュがない会社はたちまち行き詰まってしまう。そうした緊張感、銀行との交渉についても様々な心情を含めて書き連ねてある。そして、北カリフォルニアと記載されているが、シリコンバレー、ベンチャーキャピタルのコンセプトが現れる。VCビジネスが立ち上がりつつあった。しかしVCマネーの行き着く先はテック企業に向けられていた。流動資産と純資産、会計士としても働いていたフィル・ナイトは会社を成長させ、経営していく中で、これらの重要性は十分すぎるほどに分かっていた。ベンチャーキャピタルは、靴の会社には興味を持たず、キャッシュがない状況は続いていたが、ここに手を差し伸べたのは、日本の総合商社、日商岩井(現在はニチメンと合弁して双日になった)だった。

オニツカのタイガーを売ってブルーリボンは毎年倍の成長をしていたが、オニツカの輸出担当キタミによって信頼関係が崩れた。ビジネスは、結局は人と人との繋がり、信頼関係で成り立っている。違った見方をすれば、キタミが居たからこそ、(オニツカと決別したために)ナイキが生まれたし、ランニング以外のスポーツの領域に進出するきっかけにもなったのだろう。

アルバイトの美大生デザイナーがデザイン案を提示する。会議室でロゴ案を並べて議論する。あのナイキのロゴが誕生した瞬間。そのロゴの報酬は35ドルだった。1971年の35ドルがどれほどの価値かは分からない。フィル・ナイト以外の役員は気に入り、そのロゴに様々な意味を見出していた。

ロゴが決まった後はブランドネーム、金がない当時のブルーリボンは従業員全員でアイデアを出し合った。ナイキというブランド名は幹部の一人が夢の中で見たもの。フィル・ナイトがギリシャ旅行で見たニケ、勝利の女神の名前でもあった。それでも決めきれず、決め手になったのは締め切りだった。既に工場に発注していたシューズの生産にブランド名を入れなくてはならない。広告の締め切りもある。こうしてNIKEが誕生する。
ゼミ友達とアーティストにおける意思決定に関する対話をした。ビジネスにおいて意思決定を下すのは締切であることが多いという点に合点がいっていなかった。そこがアーティストに習うところだと指摘する。

これで決まり

エルンスト・H・ゴンブリッチ「美術の物語」河出書房新社 2019年

これが企業人には、とても難しい。


当初のナイキは(関税回避としてアディダスも発注していた)メキシコの工場で生産したが品質は散々なものだった。商品の仕入ができなければビジネスは終焉を迎える。オニツカ側の契約を盾にとった脅しとも見える要求、そんなブルーリボンに救いの手を差し伸べたのが、またしても日商だった。世界中のシューズメーカー(生産工場)を知っている。その生産背景があるからオニツカとの冷え切った関係もブルーリボンの成長を妨げることにはならなかったのだろう。

1972年はオニツカとブルーリボンの決裂の年、そして産声を上げたばかりのまだまだか弱いNIKEが世に出ていく年。日本に発注した試作品は散々だったが、ブルーリボンが誇大なことを言わずに、正直だったことで注文は順調に入った。バイヤーは、現在ではなく未来に対して注文をしたということ。これこそ投資なのでしょう。アメリカのビジネスはドライな関係というが、そう主張している人には、是非とも本書を読むべきだと思う。

養護施設を転々としたゴーマンはナイキの中に自分にはなかった家族を見出し、常に優秀なチームプレーヤーとして尽くしてくれた。(p.402)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年


スポーツ用品の場合、スポーツの大会は絶好の広告機会になる。スポンサリングをしたアスリートが活躍すれば売上は上がる。1972年、アスリートの活躍を期待していたミュンヘンオリンピックは一変し、後に「黒い9月事件」と呼ばれるテロ事件が起こった。ベトナム戦争は出口の見えない状況だった。

私たちの時代は死にまみれた困難な時代であり、少なくとも1日に1度は自らにこう問わざるを得なかった。生きることに何の意味があるのだろうかと。(p.304)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

修士論文でコンセプチュアル・アートを研究した。コンセプチュアル・アートは1966年から72年に頂点を迎えた。ベトナム戦争の影響は無視できない。この戦争がアメリカや世界にもたらせた意味を、この本からも読み取ることができたのは大きかった。

ニクソンは様々なことを行った。毛沢東との会見から米中の国交樹立、プラザ合意は、日本の円がドルに対して強くなった。これは日商を通じて日本の工場に生産を委託していたブルーリボンにとっては痛い。為替の変動は、キャッシュフローに深刻な影響を与えることになる。

機能と美しさを兼ね備えたシューズは手頃な価格であり、需要は爆発的に増えていった。ドルは円に対して弱くなっていくが、生産体制は日本に依存している。

1976年にこのシューズが一般的な装身具から芸術品へと進化するのを目の当たりにして、私は思った。みんながこのシューズを履いて学校に通うようになるかもしれないと。(p.401)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

新しい習慣はやがて文化になる。これはナイキだけが着目したわけではなく、アディダスは既にスタンスミスを世に出していた。

バウワーマンが開発したワッフルトレーナー

ブルーのワッフルトレーナーを発売、ジーンズにあうだろうと考えた。それがヒットし、需要に供給が追い付かない状況になった。社名をナイキに変更し、生産拠点も日本、プエルトリコ、アメリカに加えて追加する必要があった。

目を付けたのは台湾、当時日本の円が強くなり過ぎていたためか、生産拠点の移転が靴業界の共通認識だった。1976年のこと。蒋介石が亡くなったばかりの台湾は小規模な工場をいくつも建設中だった。

疎外感と混乱、台湾を任されたゴーマンが台中に降り立った時に見られた様子。初めてアジアを訪れたアメリカ人によくみられる反応だという。別のページだが、フランク・ロイド・ライトのホテルに宿泊できると、日本行きを楽しむ記載があった。もはや東京には残っていないが、東京のダイナミズムの良さとどんどん変わっていってしまう悪さ、両面があると思う。昔、ANAの機内放送でも永田町のプリンスホテルの取り壊しを残念だと言っていた外国人の言葉を思い起こす。あの番組をもう一度見てみたいな。


ブランドが力を増せばコピー品が出回る。

模倣と言えば聞こえはいいが、安価なコピーは窃盗に等しく、この窃盗はタチが悪い。こちらからの何の指導もないのに、細かい部分やできばえは驚くほど素晴らしい。私は工場主に手紙を書いて、製造を中止しなければ、100年間刑務所に入れてやると訴えた。
ちなみに、うちで働いてみる気はないかと付け加えた。(p.442)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

日本メーカーもコピー品に悩まされた。そのコピー品の流通を手っ取り早く止めるには、手の内に引き入れてしまう事。コクヨの事例が思いつく。

ナイキはこの工場を手に入れることで、日本の生産背景に依存する必要が無くなった。

日本でナイキブランドを自社の力で展開したい。そう考えたら、日商との交渉が必要になる。その交渉人は大前研一だった。

シュードッグには書かれていないが、このテキストにはフィル・ナイトの卒論のテーマについて書かれている。

卒業論文のテーマは「今後米国では労働集約型のビジネスモデルは難しいから日本へ行く」というもので、まさにこれがナイキ創業へとつながる物語の始まりでした。

https://www.lt-empower.com/ohmae_blog/viewpoint/3087.php
2022年5月3日確認

労働集約産業、明治維新後の養蚕産業を思い起こす。労働集約産業は人件費の安い国へ移転していく。アパレル産業は中国に移転し、バングラデッシュへ、あの事故の後は更に国際的に広がった。ベトナム、カンボジアなど、新たな生産拠点を求めて世界を彷徨っているよう。

靴の生産についても同様だった。

話はそれるが、労働分配率という指標がある。情報サービス産業の伸展により、この労働分配率が向上している。一人の労働者(=ITエンジニア)が生み出す価値が上昇、少ない労働者によって生み出す付加価値(=利益)が相当量増えた。これは格差を生み出す要因の一つにもなっている。幸いにして僕は(コンピュータ)プログラムが人よりもうまく書けた。そのスキルの延長なのかは分からないけれど、システムの仕組みをうまく設計することができた。けれども、みんながみんなプログラムを書けるわけではない。労働者としてのプログラマー育成や、プログラミング教育では行き詰まってしまう。そんな危機感を最近の小中学校のIT教育に感じている。


アパレルへの進出、抜擢されたのは会計士だった。

人材を募れるような靴の学校だとか、フットウェア大学などというものはないと言った。頭の切れる人間を雇うことが先決であり、少なくとも会計士や弁護士なら難しい課題に対処できるだろうし、ここぞという試験にも受かるだろう。(pp.463-464)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

採用に対する予算と余裕が無いために、難しい試験を突破した人を採用する。面接をサイコロと揶揄するくだりは思わず吹き出してしまった。地頭がよいとされる人を頭の悪い人が採用する。そんなことが実際に起こる様子を見たことがあるし、あるいは野生の勘ともいえるようなインスピレーションで優秀な人を採用する様子も見たことがある。所詮採用は博打なのかもしれない。

ただし、アパレル部門立ち上げの人選は失敗したみたい。

単に生まれつきセンスがないのだ。新たなアパレルの責任者がこれだ。(p.467)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

センスは教えることができないと言うが、どうだろうか。鍛えることはできると思う。ただ、どうやって?


ワーカホリックの発想ではあるが、目の前の厄介ごとに取り組むとき、他の問題から解放されることがある。走り続けないとならない。

燃え尽き症候群の特効薬は、結局もっと仕事に励むことなのかもしれない。(p.473)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年


そして株式上場、株式上場するまで創業者の連帯保証の債権はついてまわる。時価総額は18兆円を超える。

この時、アップルという会社も同じ週に上場を予定しており、1株22ドルで売ろうとしていた。僕たちはアップルと同等の価値があると私はヘイズに言った。(p.506)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

賃金の問題は、ひとつの企業だけではどうしようもないのかもしれない。

ある国で、(中略)賃金を上げようとしたら、政府高官に呼び出され、止められた。その国の経済制度を破綻させてしまうというのだ。靴の製造者が医者より稼ぐのは正しくないというか、ふさわしくないというだけの理由だ。(p.532)

フィル・ナイト「SHOE DOG」大田黒泰之訳 東洋経済新報社 2017年

ナイキの創業者の半生を、ナイキの立ち上げの段階から株式公開まで、そしてエピローグ的な締めくくりをする。読み終わってみれば、このボリューム感は必要なものだったと。



アートの人はビジネスを、ビジネスの人はアートを、もっと勉強するといい。



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Tsutomu Saito
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