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【わたしがニューヨーカーになるまでEP1】〜プロローグ〜彷徨いへの序章。
大崎善生氏の小説『パイロットフィッシュ』にこのような一節がある。
『高校から大学に進むとき、僕は大学というもの自体に過程ではなく目的を求めていた。中学は高校へ進む過程であり、高校は大学へ進む過程である。
しかし、大学は何かの過程ではなく、それは過程の連続で教育を受けてきた人間にとっての目的でなくてはならない。』
2003年の春、高校卒業と同時に大学進学のために18歳で静岡の実家を出た私は、千葉県船橋市習志野台にある1Kの部屋で一人暮らしを始めた。
柔道部の顧問で教育指導の厳しい担任のもとで3年間軍隊のような窮屈な高校生活を強いられた私にとって、大学への進学は、まさに『解放』の象徴的出来事であった。
そんな当時の私は、まさに「大学に目的を求めていた学生」のうちの1人で、大学生活そのものに目的を求め、それに理想を抱いて意気揚々と大学へと進学したのである。
しかしながらだ。
虚しくも大学生活の始まりと同時に18歳の私が思い描いていた理想の大学生活は、音を立てながら崩れたのであった。
それは新入生ガイダンスに出席するために初登校をしたときのこと。
最初に目の当たりにしたのは、女っ気の全くない男子学生で溢れかえるキャンパスであった。
私は、それに驚愕、そして憤りにも似た強めの落胆を覚えたのである。
そうして私は人知れず、小さな声で「嗚呼。」と漏らした。
「ああ。」ではなく「嗚呼。」である。
こんなはずではなかったのだ。
校門をくぐると同時に、キャピキャピとした女学生たちがテニスサークルなどという代物への勧誘をしに、私のところに駆け寄って来るはずだった。
そして、今も思う。
そうあるべきであった。と
2人の女学生が両側から腕を組んで来て、2人同時に私の顔を覗き込みながら
「今夜、新歓コンパあるから来ない?」
のはずであった。
敢えてもう一度、言おう。
そうあるべきであった。と
しかし、現実は遥かはるか遠く、それとは全く違ったのである。
新入生ガイダンスに向かう私の眼前に現れたのは、首元がダルダルになった薄汚れたビルエヴァンスのTシャツを着た無精髭の年齢不詳の男であった。
学生と思しきその男は、私の左肩を人差し指でつつきながら
ニヤニヤと非常に気持ちの悪い笑みを浮かべながら
私をジャズ研へと勧誘してきたのである。
つらい。
そう。私の彷徨いはこの日、明確に始まったのである。