いつまで続くかネットライフ
デジタルとの初対面
昭和の生まれである。高度成長期の生まれなのだ。
幼少期には、デジタル的なアイテムとかコンテンツに全くと言っていいほど縁がなかった。
そんな世代にとって、コンピュータとの初めての出逢いは、所謂パソコンが自宅で使えるようになった頃(確か二十歳の頃だったと思う)、そのぐらいまで一気に時代を進めないとならない。
それは、(ある意味当然かも知れないけれど)アップル社やマイクロソフト社が設立された時期と一致している。
そもそも、日常生活を送っていく中で、当時はコンピュータについての知識・認識が殆ど無いに等しいものだった。
大体からして、何で自分専用のコンピュータが要るのだろう。
コンピュータって「電子計算機」だよね。部屋に置いといて、一体何に使うんだろか。家でそんなに計算とかしないし。もしかして、ゲームするのに使うのかな。でも、ゲームで遊ぶためにそんな大金かけられない。ゲーム専用機の方が安くて簡単でいいじゃんか。
所詮、その程度の認識だったのだ。
友人・知人の中には、僅かではあったけれど、一般に普及し始めて間もないパソコン(と呼んでいたかどうかは定かではない)を所有し、仕事に活用している者もいたが、今のように、気軽に様々なソフトをダウンロードすることなど叶わない時代にあって、扱うにはプログラミングの知識と技術が少なからず必要だったし、肝心のマシンが結構デカいので場所も取った。
それに、データの保存はカセットテープ。やたらと時間がかかっていたのを見て、紙に書いた方が早いじゃん、ぐらいに受け止めていた。
そして、そんなことより何よりも、お迎えするにあたっては、ちょっとしたクルマの新車価格以上の経済的負担が必要だった。
だから、よっしゃ自分も購入しちゃおう、所有しちゃおう、などという気まぐれ、かつ、大それた発想は、脳裏の片隅を掠めることすらなかったと記憶している。
職場に、家庭に
ところが、就職して僅か数年後のこと、それまでは手書き(ガリ版を含む)や漢字タイプライター(あの、ガシャーンガシャーンってやる機械。必要な文字を探すのが面倒だった。)で書類を作成していた職場に、今にして思えば随分と大柄なワープロ専用機が登場し、それによって文書作成等の作業は劇的に変貌した。(ほどなくして、小型のものも机上に登場することとなる。)
データの保存がフロッピーディスク(8インチのフニャフニャしたの)というのも、画期的に思えた。
ちなみに、コピーは専ら青焼き(湿式の酸っぱ臭いの)で、今と同じ方式もあったけれど、印刷単価が高いので、普段使いは出来なかった。
また、支払業務等では、大型コンピュータの導入とともに、専用の端末にデータを打ち込むことによる一括処理(バッチ処理と言ったっけ)が導入されていたが、その適用範囲が徐々に拡大し、電卓片手に膨大な計算作業に励まねばならない職場環境からの解放へと、かなりのハイスピードで突き進んでいったのだ。
そして、それらの変化のうねりに当然の如く歩調を合わせ、家庭用のワープロやゲーム機も急速に普及し始め、80年代後半には、ついに我が家でも、それらの文明の利器の恩恵に浴することとなった。
確かワープロは、カシオ製の細長い液晶ディスプレイの製品だった。文書の全体を見ることは出来なかったけれど、レイアウト表示が出来たので、それに頼って、文書を作ったり年賀状の住所を打ち出したりしていた。勿論、インクはリボンタイプだった。
ちなみに、年賀状のデザイン面には、当時流行りの「プリントゴッコ」を愛用していた。
その後、ラップトップのような形状のワープロと言うか、マルチ電子手帳のような製品に買い替え(今で言えばモバイル用PC)、搭載していた簡単な表計算機能を活用して、録り溜めていたビデオテープのリストを作成したりもした。
けれども、同じく搭載していたEメール機能は、どうやって電話回線に接続したらいいのか良く解らず(プロバイダー契約なるものは、とんでもなく厄介なものだと考えていた)、大体メールを送る相手なんぞはいなかったし、結局使わず仕舞いとなってしまっていた。
また、ゲームについては、それ以前にもテレビに繋いで遊べるものを所有していたが(当時のボーリング場とかによくあったピンポンゲームとか)、任天堂の画期的新製品であった「ファミコン」の楽しさを知り、購入した後は寝るのも忘れて楽しんだ。
ゲーセンや喫茶店でしか出来なかったゲームが、自宅のテレビで出来るという、夢のような魔法のような世界に浸りきっていた。
その後も休む間もなく時代は流れ(当たり前か)、パソコン等の価格は加速度的に低廉になり、気軽に扱えるOSの普及や、仕事に趣味にと様々なソフト類が開発されたことなどによって、機は熟し、とうとう我が家にもパソコンが鎮座するに至ったのである。
初めてのパソコンでネットの大海原へ
始めの一台は、兄から譲ってもらったデスクトップPC。確か、NEC製の初心者用のモデルだったと思う。
インターネットへの接続は、アナログな上に完全従量制。パケット通信が無かったのだろうか、そんな技術的なことは全く解らないまま、兎に角、接続料金ばかり気にしていて、サクサク快適な状態とは無縁のネットライフのスタートだった。
そして、インターネットの世界への入り口は、殆どEメールに依存していた。
単純なメールのやり取りに加え、アウトルックエクスプレスで閲覧できたニュースグループは、その多くが海外のものであり、今まで知ることのなかった新たな世界に触れる感覚に溢れていた。
ただし、只管受け身ではあったけれども。
そして、せめてもの抵抗、と言う訳でもなかったとは思うが、キャラクター(アバターとは呼ばれてなかった)が動き回るメールソフト(「PostPet」のこと)を使用して、細やかながらネットライフを楽しんでいる状況だった。
既に言葉として一般化していたとは思うけれど、「ネットサーフィン」などという世界は、夢のまた夢だったのである。
それから間もなくして、理由は失念したけれども、中古デスクトップを卒業し、所謂ノートパソコンに買い替えた(予算は厳しく、かなりの廉価版モデルだったけれど)、時を同じくして、インターネットの通信料は、接続方式の進化とそれに伴う料金体系の充実で、一気に低廉なものへとなっていった。
つまり、やっと接続時間とそれに伴う通信料の呪縛から(やや)解放され、気軽にネットライフを楽しめる環境を手に入れたのだ。
ネットの世界へ改めて第一歩
既に触れてきたように、正確に言えば、インターネットへの第一歩はEメールだった訳であるが、ネットサーフィンが可能な環境を手に入れたことで、次なる一歩を踏み出す意欲に満ち溢れて来た。
何のことかと言えば、具体的にはBBS、電子掲示板の世界である。
Eメールでは、特定の相手とのやり取りだけに終始していたが、興味のある分野に係るサイトの掲示板への書き込みをするようになったことで、不特定多数の人たちとの交流が可能となるのだ。
始めはどんなきっかけだったのだろうか。情けないことに、既に失念してしまっている。忘却の遥か彼方だ。
個人が開設している複数の掲示板に、巡回しながら書き込んでいたような記憶がある。それらの掲示板が設置されている個人サイトに、何かしらの興味を持ったからこその行動だったのだと思う。
友だちの友だちは皆友だちみたいな感覚で、訪問先は次第に増えて行き、何人もの人たちと、ネット上で交流するようになっていった。一度だけではあるが、泊りがけのオフ会にも参加した。
今思い起こしてみると、その頃のネットライフは、少しばかり情けなく苦い思い出になってもいるのだけれど。
いつだって、何をしたってそうなのだ、このオヤジは。
そして、当然と言えば当然だけれども、余所の個人サイトに遊びに行くだけでは物足りず、そのうち自分自身のホームページも立ち上げた。1999年の秋頃のことだった。
使用していたパソコンはウィンドウズだったので、アクセサリーとしてインストールされていたフロントページエクスプレスを使用して、見よう見まねで作成したホームページ。
高額なホームページ作成ソフトを購入するほど、インターネットへの熱心さには欠けていたので(軍資金もなかったし)、基本的には全て無料で作成していた。
気に入った余所のサイトのソースを覗き、そこに記されたタグを参考にいろいろと飾ってみたり、Java Script を使って動きを付けてみたり、出来そうなこと(勿論タダで)は、片っ端から試してみた。
楽しかったなぁ。(遠い目)
立ち上げたサイトには、主に趣味がらみのコンテンツ(その頃は、ネット以外は専らスキーに時間を費やしていた)を盛り込み、掲示板も設置した。
もっとも、たまに書いてくれるのは、旧知の人たちばかりだったけれど。
それにしても、今思えば、随分とエネルギーを注ぎ込んでいたものだ。
ブログへの移行
一時的に集中して楽しんでいた個人サイトの運営(「運営」と言うほどのものでもなかったが)だったけれど、熱しやすいものは冷めやすいというのが世の常である。
ほどなくしてコンテンツの維持が困難になり(所謂ネタ切れ)、交流のあった人たちとも疎遠になり(元来人付き合いは下手なのだ)、掲示板巡回活動も先細りしていった。
そんな折に流行り出したのが、ブログという形式だった。流行り出したというか、自分が知らなかっただけなのかも知れないけれど。
サイトのコンテンツを維持するのは難しくても、ブログは日記みたいなものだから、日々綴るのは簡単そうに思えたのだ。
なので、個人サイトのコンテンツは取り敢えず生かしつつ、2つのブログを立ち上げた。ひとつは、庭仕事を始めとした何でもありの雑記帳的なもの。もうひとつは、ホームページのコンテンツにもしていた「納豆」についてのものだった。
ただ、継続は力なりとは言うけれど、力なき者に継続なしだった。
もともとネタに乏しい面白味のない人間なのだ。他人様を喜ばせたり、興味を惹いたりすることが継続的に出来るわけもなく、更新頻度は加速度的に減っていった。
結局、ブログはさして充実することなく、寧ろブログへの書き込みに負担を感じる始末。元々のサイトが放置状態(リンクページが機能している程度)であるばかりか、ブログまで後を追うこととなっていった。
いや、「なっていった」というのは他人事っぽい。この場合、「していった」と言うのが正しいのだろう。
そして、いつしか仕事も忙しくなり、夜な夜な興じていたネット徘徊もままならなくなっていった。
ただし、敢えて言わせていただくならば、実はこの間、映画ファンによるレビューサイトへの投稿だけは継続していた。
レンタルビデオ(DVD)を借りまくり、折角観たからにはレビューのひとつも書いてみたいとの思いに駆られ、結構熱中していたのだ。
公私ともに多忙化する中、そちらの投稿頻度も、ブログ同様低下して行ったけれど、細々と継続している唯一のネットライフだった。
スマホを介してSNSへ
そんな時期が随分と続き、ブログたちは放置しっぱなしだったある日の深夜、ちょっとしたきっかけで音楽ライブに熱中するようになった。(その経緯は別に書きたいと思っている。と言うか、ライブのブログには既に書いてあるけれど。)
そして、ライブハウス通いは一気に加速することとなり、そのことが放置状態のブログに光を射してくれることとなる。
更には、それと同時に、ライブ通いはSNSへの道筋ともなっていった。
あまりに頻回にライブ通いするようになったある日、「こんなに通ってるんだから何かしら足跡を残したい。」、そんな気持ちが芽生えた。
そこで思い至ったのが、放置していたブログだった。
既に放置中であったブログについては、幾度となく再開を試みたけれど、その都度一向に筆は進まず、挫折を繰り返していた。
しかしながら、「ライブに行ったらその感想を書く!」と絞り込めば、今までと違ってネタには事欠かないだろう。ネタが尽きなければ続けられるぞ。
そんな短絡的な動機に過ぎなかったのだけれど、やってみたら、意外にもサラッと書けた。この調子なら、以前と違って、投稿し続けることが出来るかもしれない。
投稿先については、以前のサイトではなく、新たにメジャーなところを選んだ。折角書くんだから、もしかしたら読んでくれるモノ好き(失礼!)がいるかもしれない、利用者の多いところに書いた方がいいだろう。そんな欲も頭をもたげた。
そして、それと同時に、その頃、遅れ馳せながら手にしたスマホを活用し、ライブ情報を得るためにツイッターやらインスタグラムやらフェイスブックやら、いろいろとアカウントを揃えた。
好きなアーティストのアカウントをフォローすることで、タイムラインには情報が溢れるようになった。
結果、以前掲示板にハマったように、各SNSにも投稿するようになり、その内容もライブ関係に限らず、少しずつではあるけれど、かつての個人サイトのように(面白いか面白くないかはともかくとして)いろいろと書くようになっていったのである。
それから数年、ネットライフのスタイルはほぼ変わっていない。突然に吹き荒れたコロナ禍で、ここ最近のライブ参加頻度は一気に低下してしまったけれど、参加すれば必ず感想文をアップしている。
先に触れた映画レビューも、頻度こそ少ないけれど、作品を観たら必ず書いている。
そして今、この場(note)で、自らの現状を書くようにもなった。
もしかしたら、これも、少しばかり長続きしているだけの一時的なマイブームに終わるのかも知れない。
けれども、新たなネットライフの形を見つけるまでは(見つけようとしている訳ではないし、ネット以外の楽しみが優先するかも知れないが)、今少しの間、今のスタイルで楽しんでいたい。
自分に発信出来ることを、思いつくまま発信し続けていきたいと思っているのだ。