優先席の前に立つ
座るべき人
昔は「シルバーシート」って言ったっけ。
いつの間にやら「優先席」という名で定着した。
「シルバーシート」の登場は旧国鉄時代の話。1970年代半ばのことだった。それはそれで定着していたと思う。
そして、その時代が暫く続いた後、確か平成の始めぐらいの時期に、「優先席」という名へ変わっていったと記憶している。
「シルバーシート」は敬老の日に合わせて導入されたようだけれど、そのエピソードからも分かるように、そもそもは足腰弱った高齢者が、電車の中で優先的に座れる座席だった。
そのネーミングは、高齢者の白髪をイメージした「シルバー」ではなく、以前テレビのバラエティ番組で聞いたのだけれど、最初に国鉄がシートに使用した生地(倉庫に眠っていた余剰分の生地)が、たまたま銀色だったからということらしい。
その後、社会の福祉的理解が進んだということか、高齢者だけではなく、障がい者や妊産婦、病人、等々、立っていることに何らかの支障のある人、言い換えれば、「座るべき人」が優先的に座れるようにと、「優先席」という名を冠したようだ。
そんな訳だから、勿論、空いていれば誰が座っても良い訳で、元気いっぱいの若者が座っても何ら問題はない。
「座るべき人」が来たら、譲れば良いだけの単純な話なのだ。
しかしながら、多くの日本人の性分として、仮令空いていても、優先されないでも良い人は優先席には座るべきではないと考えがちであり、若者がデーンと座っていれば、時として白い目でガン見されてしまう。
そして、かく言う自分もその口である。
なので、具合が悪かったり、どっかが痛んだりしない限り、優先席には意地でも座らないようにしている。寧ろ、具合が多少悪くたって、どっかしらが少なからず痛くたって、意地になって座らないようにしているのだ。
座りたくない人
元々がそういう考えだった訳だけれど、最近は椅子そのものにあまり座らないようにしている。
しかも、コロナ禍がそういう気分を加速したのだ。
そもそも公共交通機関の座席というものは、(当然のことながら)誰でも自由に座れる。
夏場に汗でビショビショになっているサラリーマンもいれば、さっきまで駅舎の汚れた階段にベタリと座り込んでいた高校生もいる。
ちょっと見、視覚的には分からなくても、相当に汚れているのだ。電車やバスのシートは。
そこにもってきての今回のコロナ禍。どこの誰かも知らない人が、お尻でたっぷり温めた席に座る気なんぞは、益々もって起きようがないのだ。
だから立っている。電車もバスも。出来れば、つり革も手摺も掴まない。
必然的に、電車の場合はドアの脇か連結部分近くに陣取り、どこにも掴まらずに寄り掛かっているわけだ。
特に最近は、ドアの脇に寄り掛かると、眼下に座っている乗客と密着しかねないことと、駅に着く度に乗降客が目前・至近を通過することを気にして、s車両の連結部分近くに立つ場面が増えた。
そう、優先席の前に立っているのだ。
いつか訪れる日
そんな公共交通機関ライフ(なんじゃそりゃ?)を送っていた或る日のこと、いつものように電車で優先席の前に立っていた。
日中だったけれど、土日だったせいか車内は比較的混んでいて、勿論座席は満席であった。
目の前には競馬新聞を熟読する初老の男性。自分も初老ではあるけれど、その人の方が間違いなく先輩初老だった。
そして、その隣には大きなスポーツバッグを足元に置き、スマホに集中している20歳前後のトレーニングウェアの健康そうな男子。
元気そうな運動系の若者が優先席に座っているからと言って、見回したところ「座るべき人」が立っている様子もなく、その若者を見咎める気など全くなかった。
自分はと言うと、寄り掛かる場所を確保できなかったので、両足を踏ん張って体の安定を図りつつ、大きめのハードカバーの書物を両手で広げて読み耽っていた。
先に述べたように、そもそも座りたくない訳だし、座りたそうにしていたとは我ながら思えない。
しかしながらしばらくの後、件の若者が徐に中腰になり、「座りますか?」と話し掛けて来たのだ。
不意打ちを食らい、その時何と答えたか記憶にない。恐らく、言葉にならない言葉をもって「いや、いいです。」とかなんとか言ったのだと思う。
デニムのシャツにウィンドブレーカーを羽織り、メッセンジャーバッグを襷に掛けたオヤジは、結構若い恰好をしていたと思う。
しかも、時節柄マスクを着用していたので、年齢は相当判りにくかったのではないか。
それなのに、彼は迷うことなく席を譲ろうとしたのだ。
自分より年上には、自らの作業を中断してでも席を譲るタイプなのか?
それとも、自覚していなかっただけで、単純に座りたそうに見えたのか?
もしかしたら、他人に席を譲ることが、彼のマイブームなのかもしれない。
他人事は分からない。
考えても無駄だ。
素直に受け止めよう。人間は素直さを失ったらお終いだ。
きっと彼の目には、目の前に立つ初老のオヤジが、「座るべき人」に見えたのだ。
きっとそうに違いない。
いつかは来る日と思っていたけれど、その日が突然に訪れたのだ。
そのことは、別段嬉しくもなければ、悔しくもない。
殆ど誰もがいつか受け止めるありふれた一日が、自分の目の前を通り過ぎて行っただけのこと。
幸いにも(?)、その経験はそれっきり訪れて来ない。なんとなく「助かった」気分だ。
でも、これが重なっていくと、初老から老になるのだね。
足腰は鍛えておかないと…。