大切なもの
価値観ということ
自称終活ということで、実家の整理をのんびりと進めているけれど、その中でふと気付いたことがある。
気付いているけれど触れたくないことと言うべきかもしれない。
例えば、お気に入りのミュージシャンのCDを買う。嬉々としてPCでデジタルオーディオプレーヤーに入れる。移動中の電車や寝る前の寝床の中で聴く。
楽しい。満足する。
このCDや録音した音源は自分にとってはとても大切なもの。聴きたい時にいつでも聴けて眺めたい時にはいつでも眺められることの喜び。
でも、自分以外にとっては何?大切なもの?
例えば、お気に入りの映画やドラマはDVDを買ったりテレビで録画したりする。DVDは整理してカテゴリ別にラックに並べ、録画したものは誤って消さないようにロックをかけて保存しておく。
こうしておけば観たい時にいつでも観れる。
でも、これだって自分以外にとっては大切?持っていたい?消したくない?
楽器だって本だって写真だって何だって、それが自分にとってどんなに大切な物だとしても、自分以外にとって大切かどうかは個人の価値観。
ある人にとっては自分以上に大切に感じるかも知れないけれど、ある人にとっては全く興味もないし要らないものだろう。
実家を整理していると、亡き両親が大切にとっておいた物たちが沢山現れる。と言うか、殆どがそういう物たちだ。
消耗品類は単純に処分するだけ。
それじゃ、目の前に次々と現れる「大切にされていた」物たちをどう扱っているのかと言えば、結局のところ大部分は処分している。
分別してひとつひとつ適切に処分している。
端的に言えば、次から次へと捨てているのだ。
勿論、中には捨てきれない物だってある。写真は捨てられない。直筆の文面とか親戚から来た書簡の一部も捨てられない。手作りの物とか趣味関係の物も捨て難い。
その差は何かと問われれば、故人の想いや自分の思い出がそこに詰まっているかいないかといったところか。
もっと単純に言えば、「自分にとっても大切なもの」かどうかというところだろう。
故人の意思は確認しようもない。遺志が記されたものもない。
だから
処分している自分が、自分自身で判断しなければならないのだ。
価値を与えているもの
そこで気付いてしまったこと。自分自身が大切にしている物や後生大事にしまってある物はこの先どんな運命を辿るのだろうか。
例えばCD。
結構な数のCDがラックや収納に詰まっている。レコード盤もそこそこある。
当然のこと、自分が好きなミュージシャンの音源だから買ったのであって、仮令今は全然聴かなくなっていたとしても、記念の品よろしく保管している。
言ってみれば思い出の品ということ。
だから
それは「自分にとって大切なもの」なのだ。
でも、明日自分の命が消えてしまったら?
大切なものという価値を与えていた存在である自分自身が消え去ってしまえば、そこに与えられていた価値の多くも消失してしまうかもしれない。
「多くも」と言ったのは、他者にとっても価値がある場合だって想定されるからで、例えば大人気のミュージシャンのCDであれば中古で欲しい人がいるかもしれない。
たまたま自分と趣味嗜好を同じくしている人だっているだろう。
少なくともCDやDVDや書籍であれば売れるかもしれない。だからこそ商売になっているわけだし。
また、売れないにしても写真なんかはそれを見て懐かしんでくれる人がいるかもしれない。一緒に写っていれば、何かの記念に欲しがってくれるかもしれない。
どの程度の割合か想像出来ないけれど、持ち主が消え去っても価値は消え去らないという物もあるに違いない。
ただ、大部分の物に与えられていた価値は、それを与えていた者が居なくなれば消失してしまうことだろう。
そして、価値が消失してしまった物は、単なる物として処分されるのを待つばかりだ。
そして今
実家を整理しながらこんなことを考えていると、改めて今の自分自身の暮らしを振り返ってしまう。
CDを買う。欲しいから買うし、買ったものは大切だ。でも、自分亡き後、遺された家族はそれを処分しなければならなくなる。
同じ価値観であれば捨てることもないだろうから問題ないけれど、好きでも何でもないミュージシャンのCDなど単なる場所ふさぎに過ぎない。
売ってしまえば多少は収入になるけれど、大抵の場合は得られる収入より手間の方が大きいものだ。
所有者が生きている時は喜びを与えてくれていたものも、所有者が居なくなれば価値は消えて遺された者にとっては負担にしかならない。
だから、買わない方がいいのだろうな。近年サブスクは大いに充実しているし、どうしても欲しければデータをDLすればいい。
でも、大好きなミュージシャンがCDを発売すれば、サインも欲しいし盤で買ってしまう。
サイン入り、しかも宛名入りのCDなんぞは売ることさえままならないのに。
CDだけでもあれやこれや悩んでしまう。生活全般を顧みれば、次から次へと悩みは尽きない。
少し前から断捨離というものが密かに(でもないか)流行っている。モノに溢れた社会の中で、ミニマルな暮らしを推奨している人は多く、それに賛同する人も多い。
そしてそれは、基本的には今を充実して生きるための考え方なのだと思う。
同時に、「立つ鳥跡を濁さず」という言葉もあるように、誰にも負担を残すことなく去り行くことも考えなければならないだろう。
実家を整理していてそれを最近強く感じている。
様々なものを遺していった両親に対する不満など決してない。
寧ろ、箪笥や押し入れを整理している時に、思いがけず蘇る懐かしさを愉しんでいることが多い。
薄れつつある故人の思い出が、目の前に現れる品々によって呼び覚まされるのは、淋しくもあり楽しくもある。
だからこそ、処分することが心苦しく悲しくなることもあるけれど。
実家の整理が終わったら、自らの断捨離を本格的に進めたいと思う。
もし明日、自分がこの世を去っても必要以上に遺された者に負担を残さないために。
出来ることなら、思い出だけを遺していきたい。