法的文章の書き方 イロハのイ

この文章は大学1、2年生に向けて書いているつもりです。 

 自分自身法律を学び始めたときに「これ」を理解していないまま法律の勉強を始めて、後になって「これ」を理解したのですが、理解する前と理解した後では、文章の書き方がずいぶんと変わりました。

「これ」というのは、法的三段論法です。

 ある意味、法的文書の暗黙のルールであり、これを守らない文章は、法的な文章ではないです。言ってみると、単なる演説であったり、アジビラであったり、評論家の意見です。
 法的三段論法を守ることにより初めて法律家の文章になります。

 概念自体は、法律入門とかにいくらでも書いてあるし、ネットに優れた文書が、たくさんあるので、割愛しますが、「適用される法規範を大前提とし、具体的事実を小前提として、この2つの前提から、結論として導き出すこと」と言われています。
 起案を前提にするなら、「適用される法規範を大前提とし、証拠資料に評価を加えて認定した具体的事実を小前提として、この2つの前提から、結論として導き出すこと」とでもいう感じでしょうか。

 こういうことは法学部の1年生で大体習うのですが、つまらない話なのと、ある程度知識が入って、自分で論文を書くようになってからの方が、説明がしっくりくるところなので、最初は忘れられがちですが、一度しっかり理解しておいた方がいいことです。

 なぜこのつまらない話を書くかというと、見たことがない問題に出会ったとき、テンパってこのルールを忘れた文書を書いてしまうからです。

 自分の経験を言えば、旧司法試験の択一を突破して論文試験を受けている時期でも、わからない問題に対して三段論法を無視した答案を書いてしまったことがあります。

 わからない問題を解く時に、「よくわからないけどAさんがかわいそうだから救済されるべきだー」みたいな、シンプルな価値判断だけの裸の利益衡量で話を展開するのが典型です。
 書いてる方もわからなくて、ヤケクソで書いてるので、正解でないことは百も承知で書いています。
 頭の中にあることを思いつきで書いているのですから、裸の利益衡量になるのもわかるのですが、少なくとも法的三段論法を踏まえていれば、何とかなる(法解釈としてあり得る見解になる)かもしれませんが、法的三段論法を外すと法的な文書ではなく、ただのおじさん、おばさんの独り言、意見になってしまいます。

 弁護士になり学生の答案を採点する側になると、自分だけでなく、他の学生さんも、そういうことをやりがちなのがわかります。
 わからない問題を、「白紙で出すくらいなら、なんか書いておけば、多少でも点がつくかもしれない」という気持ちであることは痛いほどわかります。
 でも、それではダメなのです。

 この場合、いくつかの対応がありえます。
 勉強法のnoteで何度も書いていますが、
1 基本的な問題でしっかり点数を取れる状態になっていれば、わからない問題を落としても、致命症にはなりにくいです。
 どんなに勉強しても、わからない問題は無くなりません。全てに対応できる状態にする必要はないので、ただの意見書を作成しても合格してる人はたくさんいると思います。
 変な例えですが、船の底を厚くして船を沈まないようにしてるイメージでしょうか。

2 全くわからない問題に対しても、こういう条文があるから、こういう時に使えるのではないかと解釈論を展開する方法で、これが法的三段論法だけは守って書面を作る方法です。
 変な例えを続ければ、船が沈んで海で泳がなくてはならなくなっても、最悪死なないために最低限の泳法は身につけているイメージです。


 法的三段論法を守ることにより、初めて、一人のおじさんの意見を超えて、法律に基づき判断すればこうなるのだから、正しいのだといえるのです。

 基本の確認的な話ですが、ただの答案や論文は紙切れに過ぎません。同じ紙切れでも、裁判官の書いた判決になれば、それにより権利関係が変動し財産が強制的に移転できたり、死刑判決であれば、生命まで奪うことができてしまいます。

 なぜそのような、強権的なことが許されるのか、なぜ正当化されるのか。
 それは、法に基づいた審理、判断の結果だからです。
 実際の裁判官は、裁判所に就職活動で採用されたおじさん、おばさんに過ぎず、判決に記載された内容は、一人のおじさん、おばさんの見解に過ぎません。
 ただ、それが法律を解釈して判断されているということで、おじさん、おばさんの見解に、生命奪取までの力が与えられているのです。

 もっと遡れば、なぜ法に従っていれば、強制的な権利変動が正当化されるかと言えば、法律は、国会での議論、議決の上で制定されているからであり、なぜ国会が制定すれば正当化されるのかと言えば、国会議員は、主権者である国民が、選挙により選出しているからです。法律に基づいた判断の背後には、主権者である国民の意思があるのです。

 国民主権の正当性の契機(国家の権力行使を正当化する究極的な権威は国民に存する)とは、こういう意味であり、ただのおじさんおばさん(裁判官)が、被告人に対し「死ね(死刑)」と言えば、本当に殺されてしまう(正当化されてしまう)のも、主権者である国民が選んだ国会議員が制定した法律に基づき判断されたからです。

 別に裁判官が優秀だから強制力が生じるわけではありません。法に基づくから強制力を持ちうるわけです。法に基づいていれば、おかしな判決にも(確定すれば)強制力は生まれます。それが法の定めですから。
 だから法的三段論法を無視した意見は、どんなに力説しても、どんなに優れた内容であっても、せいぜい新聞記事か、評論家の意見にしかならないわけです。

 話を戻すと、
 わからない問題では、パニックになって適当なことを書くのは厳禁です。
 何か法律の中から使えるものを探し、その条項を解釈し、適用できる条件を作り出し、それに事実を当てはめると、「Aさんが救済されることになるよ」という体裁を作るのです。
 具体的な作り方のテクニックは、別のnoteにしようと思いますが、どんなにわからない問題でも、この体裁(法的三段論法を踏まえた見解)だけは守れば、最低限法的な文章にはなります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?