【イザボー観劇感想文】私を私たらしめるもの
※以下本文には、ネタバレ要素が含まれます。ご注意ください。
2024年2月10日、オリックス劇場にて『イザボー』マチネを観劇してきました。
イザボー役の望海さんを私が初めて舞台で観たのは、宝塚歌劇団に所属されていた頃。
望海さんは、花組の『エリザベート』でルキーニを演じられていました。ルキーニは狂言回しのような役割で、エリザベートやトートに劣らぬ存在感を放つ存在。強烈で、鮮烈で、魅了される。「そんなルキーニを演じているのは誰だ!?」と当時衝撃を受けたことを覚えています。
あの公演で主役の明日海さんに撃ち抜かれ、ゆるーい宝塚オタクライフが始まったわけですが…望海さん、もといだいもんさんの吸引力も半端なかったのです。
といいつつ、結局雪組に移られてから退団されるまで、だいもんの舞台を観る機会がなく。
ようやっと、久しぶりに、だいもんを生で観られる日がやってきた。
もうそれだけで楽しみで仕方なくて、「這ってでも行きたい」思いが強すぎて。当日になって体調を崩さないか、神経質になりすぎるほどでした。
ドキドキとともに迎えた幕開け。
私にとって『イザボー』は、物語も音楽も演出も、すごく「好き」だなと思える作品となりました。
イザボーは悪女だったのか?
「最悪の王妃」「最も嫌われた王妃」
作中で何度も繰り返されたこのフレーズ。
宣伝でも打ち出されていたので、私のなかで漠然ながら「イザボー=悪女」というイメージができあがりつつありました。
けれど、果たして本当にそうだったのか?
今日、『イザボー』を観終えた私がそう問われたら、
「イザボーはイザボーとして生きただけ」
と答えるでしょう。
彼女は夫を愛していた。やさしい約束を信じたかった。自分の居場所を守りたかった。
彼女はただ、幸せになりたかっただけ。
子どもを産む道具か、お飾りの王妃か。
そんなものが「私」であってたまるかと、心の底から叫んでいるひとりの人間なのだと。
イザボー演じるだいもんの歌から伝わるのは、魂の叫びでした。
「悲劇のヒロインなんかにならない」というイザボーの啖呵は、まさに悲劇へのアンチテーゼといえるのではないかと。
このセリフを聞いたときに、「私、イザボーが好きだな」と心が震えました。
ともすれば歴史上の人物とは、あくまで第三者視点でしか語れないものかもしれません。
だから悲劇のヒロインが人々に支持され、悪女が忌み嫌われたとしても、しょせんは誰かの評価に過ぎない。
そのひとの本質ではないし、そのひとの人生も見えてはこない。
『イザボー』を観る前の私も、ただイザボー・ド・バヴィエールを「悪女」という単純なカテゴリに分類しているだけでした。
それは血も通わず、生きてさえいないはりぼてのようなもの。
そんなイザボー・ド・バヴィエールがイザベルになり、イザボーとなったのは、この物語を見届けたから。
イザボーが生き抜くさまを、目の当たりにしたから。
私は、イザボーという人間が確かに生きた証を知ったのだと、心の底から感じました。
「生きる」とはどういうことか。
「私を私たらしめるもの」がなんなのか。
イザボーが一生をかけて探し求めた答えは、私にも問われていると思います。
ならば私は、私が私であるためにどう生きていたいのか?
たとえ幸福と苦難がない交ぜになった人生であっても、最期に「御託はいい、これが私だ」と言ってのけられたら、とイザボーに伝えたい。
今はただ、そう思うのです。