「こじれきった自己肯定感のなれの果てよ」気まぐれ散文②
眼下に車が行き交う歩道橋の上で、カンカンと警報鳴り響く踏切の前で、わたしはときどき死を思う。
たとえばこのまま橋げたから身を投げたなら、数歩踏み出して線路内に入り込んだなら。
わたしは本当の意味で死を知らないので、いつもそこで空想は終わる。
作り物でしかない映像はただひたすらに無意味で、滑稽で、きっと不謹慎だ。
ずっと何かをこじらせている、そんな気がしている。
命を脅かされないわたしは、環境に恵まれたわたしは、傲慢なことに、何もかも持て余しているに違いない。
こんがらがってねじまがって、けれどその塊をほどいてみせたところで、中身は空っぽなのだ。
お前にはなにもないのだと、ものわかりの良いふりをしてみせる自分さえ空々しくて、痛々しくて。
ああ、もう、やっぱりこじらせている。一生やってろよ、と毒づきたくなる。
わたしはわたしがこんなにも大嫌いで、そのくせひどく打たれ弱く、他の誰でもないわたしから愛されたいのだ。
わたしはいつまで、気まぐれの死を思い浮かべるのだろう。
道徳から外れてアウトローを気取るには、なにもかも中途半端なのに。
単純な事実を複雑な嘘にしたがる、ハリボテがいつかすべて剥がれ落ちるときがくるのならば。
せめて虚勢を恥じる間もなく終わればいいと、身勝手に願っている。