ダ・ヴィンチになりたかった5歳児が、世の中を知る
子どものころ「将来は何になりたい?」と聞かれると、
無難に「うんてんしゅ~」とか答えていた。
しかし5歳児の私は、心の中では疑問だった。
「なぜどれか一個しかなれないのか?」と。
「すべてになれる、全能の存在を目指してもいいんじゃないか?」と。
(大まじめ)
だから、子どものころに憧れていた人物はレオナルド・ダ・ヴィンチだった。
人間の持つパラメータすべてが基準値を満たした状態は、こうなる。
しかし、10代になって思い知った現実はこうである。
痛々しい小さな多角形。
時間をかけて経験値を得ることで、きれいで大きな形にしていかねばならない。学生は、まさにこんなグラフと向き合うことを余儀なくされる。
やっかいなことに人間には個体値というものがあり、パラメータによって伸びやすさが違う。
いわゆる「学校のお勉強」に相当するパラメータに適性があると、その人は「かしこい」とされやすいらしい。「色気」適性があると、「モテる」とされやすい。
…間もなく私は、レオナルドダヴィンチを目指すのを諦めた。
そして社会人になると、自分の今までの人生以上の時間を一個のパラメータに費やす人ばかりだということを知る。
みんな何者かになるんだと、私はやっと納得した。
ならば、目指すのはこういう形か。
人生において自分の育成は、図形をいかにピンピンに尖らすかゲームということか。
そうなると…与えられる時間が平等なら、早い段階で適性のあるパラメータに振り切る必要があるな。
自分が切り捨てたパラメータは、うまい具合に誰かが伸ばしているもので。
さっきはやっかいだった個体値が、今度は活きてくる。
たくさん集まるとこうなる、と。
これが社会か。
皆お互いに敬意を払わないとね。
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