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ようこそハイローラー
序章
家の扉を閉めて、ゆっくりと駅へ歩き出す。
ここに戻る時は、違った人生になっているかもしれない。
都内某所。
少し古い雑居ビルの薄暗い階段を登ると、ポーカールームの扉。
いつも初めてのお店に行く時はワクワク感を感じるものだけど、この夜の空気はどこか息苦しい。
店内は思っていたより綺麗で、なんというか、普通だった。
数人がスタッフらしき人と雑談をしながらトーナメントの始まりを待っていた。普段行っているアミューズ店舗では見かけることのないタイプの人もいるな。
――30万コイン。
これが、二十二歳の青年・輝人(てると)の持つすべてだった。
バイト代は生活費とポーカーで使い切り、貯金と言える貯金はなかったけど、アミューズで腕を磨き、大型大会でインマネして獲得した賞金。
ファイナルテーブルでアンラッキーして結果は6thだったけど、それまでに十分ラッキーしてたし、満足の行く結果だった。
そして今日は、人生で初めてハイローラートナメに出るためにここに来た。
ハイローラーに参加できるバンクロールじゃないけど、どうせラッキーで獲得した賞金だし、一回ぐらい挑戦したっていいじゃないか。
運が良ければ優勝賞金はその数十倍。ほんの数時間で人生が変わる――そんな夢のような話が、ポーカーには確かに存在する。
「ついた。楽しんでくるわ。」
ポーカー仲間のグループLINEにメッセージを送る。
向こう側のトーナメント
エントリー費は10万コイン。レイトレジストは6時間後。
人伝てに事前情報は入れてきた。この店には、10万がなんでもない人達も多く、プレイも正直大したことはないと。
リエントリーを前提としてすぐにオールインを入れてくる金持ちもいるらしい。どんな世界だよ。
じりじりとした展開。序盤は様子を見ながら分散を抑えてプレイする。
予想以上というわけじゃないけど、十分やれるレベル感。
テーブルの何人かは完全にターゲットにできそうだ。
レベル3。輝人はA5sでライト3betを返し、ペアボードにターンでAハイフラッシュを完成させる。
ルースニキからオールイン。セットフル以外には勝っている。
当然のコール。
相手から出てきたのは、セットフルでも、ドローでもなく、エアだった。
「リエントー」
5000円のトナメのように気軽にリエントするその姿を見て、安堵の溜息をつく。
「ダブルアップした、てか全然いけそう。」
仲間にLINEを送る。
「あちー!ナイスー!」
「インマネしたら焼肉で。」
すぐに返信がくる。
最初の綻び
次のレベル。輝人はセカンドチップリ。
ラッキーを繰り返してチップリになっているVPIP80%おぢに、AKで大きく3betを返す。
フロップはA97のレインボー。
相手のCBにレイズを返すと、すかさずオールインが返ってくる。
何度もオールインで降ろしているのを見ている。
そして降ろした相手にニヤニヤしながらブラフをショウしていた。
「コール!」
「オールインコール!開いてください。」
開かれた相手のハンドは98o。熱すぎる!
ターンはJ。
リバーは・・・・8。
頭が真っ白になる。
ポーカーにはよくある事だけど、なんでこの大事なトーナメントで……
「リエントリーどうされますか?」
すかさずスタッフが駆け寄る。
どうする……テーブルはめちゃくちゃいい。たぶん普通にバットビートさえ引かなければインマネは狙えるだろう。
頭の中で囁き声が聞こえた気がした。
『だって今の負けは不運だっただけじゃないか? もう一度だけ……』
終わりの始まり
「リエントで。」
まだコインはある。今回もしダメだったら大人しく帰ろう。
「これが最後。絶対。」
まるで自分に呪文をかけるように言い聞かせる。
だが、2回目も予想外のタイミングでセットを作られ、輝人はまた飛んだ。
テーブルから離れるとき、他のプレイヤーの視線が胸に突き刺さる。
「ラッキーしたわー。」
飛ばした奴がスタッフに話しかけている。
この店の常連だろう。どう見ても普通のサラリーマンではない。くそっ!
ヘラヘラしやがって、何で稼いでるか知らないけど、失敗しろ!
心の中で悪態をつく。
「リエントリーで。」
まるで自分じゃないみたいだ。渇いた口が勝手に動いていた。
もうこれが最後のコイン。
「落ち着け……大丈夫。」
そう念じるが、胸の鼓動は激しくなるばかりだ。
輝人、ティルト
3回目、4回目、5回目――。
輝人は普段通りのプレイを心がけていたし、できていたと思い込んでたけど、後で振り返るとそんなことはなかったんだろう。
薄暗い店内が、現実感を薄める。
一度お店を出て外の空気を吸えばよかったのかもしれないけど、もう引き返せないところまで来ていた。
「どう?順調?」
ポーカー仲間からは気楽なラインが届くが、1回目に飛んだ時から既読のまま返信していない。
最初に飛んだ時にLINEしていたら、飯でも誘ってくれたかな。
今となってはよく分からない。
『もうやめたほうがいい、資金が尽きたんだろ?』
『ティルト状態だ。今やってもどうせ勝てない』
分かっている。分かっている。
輝人の脳裏には「取り返さなきゃ。」という想いだけが渦巻いていた。
7回目のリエントリーをした時に、レイトレジストのアナウンス。
お店に入ってから6時間が経っていた。
ふと冷静になる。アベレージ14万点に、自分のスタックは5万点。
でもやるしかない。
破滅の味は、意外にも安堵の味だった。
「一度でいい……一度だけラッキーしたら十分戦える。」
まるで、外れくじを引き続けるギャンブラーが、「次こそは」と信じてやまない姿そのものだ。そういう奴に次はない。
案の定、ポーカーの女神は最後まで微笑まなかった。
AKを3betオールインすると、88にコールされ、何も落ちずにあえなく散る。
「終わった。」
不思議なもので、絶望というよりは、この状況から解放されたという安堵の方が大きかった。逃亡犯が捕まって、「ほっとした」ってこの感じなのかもな。
スタッフが「お支払いはどうされますか?」
(たぶんお前も途中から分かってたよな。俺が払えないって。)
心の中でいくら悪態をついても、時間は戻らない。スタッフを睨みつける気力もない。
「30万コインしかないので、残りは友達に送ってもらいます。」
できるだけ平静を装って答えたが、スタッフはどう思っただろう。
表情からは読み取れない。
「いったんこちらにどうぞ。」
カウンターに案内される。
「外でお電話される場合は、スタッフも同行しますね。」
こんなのよくある事なのか、淡々としていた。
数時間ぶりにLINEを見ると、未読メッセージが溜まっていた。
「まだ残ってる?飛んだ?」
「大丈夫?」
「まさかリエントしてたりして 笑」
留守電も入ってた、全然気づかなかったな。
いや、バイブ鳴ってた時があったかも。
仲間内で最初盛り上がっていたLINEも、徐々に心配のトーンに変わっていた。
「ごめん、誰かコイン貸してくれん?やらかしたわ。 笑」
すぐに電話がかかってくる。
留守電を入れていた陽介だ。
「いくら負けたん?」
「80万。やったわ。足りないのは50万。」
「貸すけど俺もコイン30万しかないわ。てか電話出ろって笑」
30万コインを送ってもらい、残りの20万は、クレジットカードで支払うと伝える。限度額大丈夫かな。
ドキドキしながらカードを通すと、無事決済できたようだ。
ポーカーが終わってもまだドキドキしなきゃいけないなんて。
帰還
外に出ると、夜の街はすっかり熱気を失っていた。
22時を回った頃だろうか、ひんやりとした空気が現実に引き戻す。
ふと見上げると、雑居ビルの窓から微かに漏れた明かりの向こうで、まだ続いているトーナメントの喧騒が感じられた。
「飯でも行く?」
陽介からのLINE。
誘われるが、気が進まない。気まずいし、何より申し訳ない。
「いや……今日は頭冷やして帰るわ。また連絡する。まじでありがとう。」
輝人はポケットにスマホを押し込んだ。
陽介も余裕がある訳じゃないはずなのに、感謝と申し訳なさで頭が重たい。
夜風がビルの隙間を抜けて襟首を冷やす。まるで、さっきまでの熱く激しい感情が嘘だったかのように冷静になっている。
ガムを噛みながらタバコをふかすサラリーマン、雑居ビルの前でしゃがんでいる大学生らしき若者たち。ガードレールに腰掛ける若い女性は、うつろな目でスマホを見つめている。
一見、いつもの東京の風景だけれど、自分だけが取り残されているような感覚に陥る。
「何してんだろ……」
胸が締めつけられるような後悔と、どうしようもない虚無感。
「一回だけのはずだったんだけどな……」
すべての原因が自分にあると分かっているが、どこかに救いを求めたい気持ちも否めないし、何かを、誰かを許せない気持ちもある。
ポケットからスマホを取り出し、陽介とのLINEを見つめる。下にはまだ未読の仲間たちのメッセージが並ぶ。「大丈夫か?」「負けた?」「今どこ?」
(早く返さないとな、コイン。いつ返せるんだろ……)
頭の中で借金の計算をしてみるが、具体的な返済プランなど浮かぶはずがない。どう考えてもバイトだけじゃすぐに返せる額ではない。
それでも、もう一度勝負すれば取り返せるのでは、と一瞬よぎる自分が嫌になる。
(また同じことを繰り返すのか?)
自嘲気味に笑う。
今日のプレイを思い返しながら電車に揺られ、気づけば自宅の最寄駅に着いていた。
大きな街路樹の下を通り抜けると、街灯の漏れる光が、長い影を足元に作る。
人目がないのを確かめて、輝人はその場でしゃがみこんだ。目頭が熱い。何が悲しいって、失ったのはお金だけじゃない気がする。プライドや希望、そしてポーカーを純粋に楽しんでいた自分。いろいろなものを、失った。
アミューズで地道に頑張っていた頃の興奮と手ごたえは、どこへ行ってしまったのか。いつの間にか「大きく当てて人生を変える」という淡い誘惑に取り込まれていた自分。
明日にでも陽介に会って、改めて頭を下げないと。どうにか返済の見通しを立てて、もう一度アミューズからやり直す……。そんなぼんやりした未来図を描きながら、帰路に着く。
きっと今頃、インマネも決まって、ファイナルテーブルで戦ってる頃かな。そこに自分はいないけど。
「どうせ眠れないだろうな。」
独り言を行って自宅のドアを開けると、暗い室内にかすかに残っている自分の匂いが鼻を抜ける――夜の街を離れた実感に、思わず肩の力が抜けていった。