フェミニズム vs 家父長制
みなさまこんにちは。ポ・キールでございます。
おかげさまでnoteをたくさんの方に読んでいただいています。重ね重ね感謝いたします。
しかし人の欲(報酬系)とは恐ろしいものです。
冗談抜きでこのような状態になってしまい、noteを書くしかありません。でもネタはいくつかあれど読まれるのは「フェミ」に絡めた時事的なものばかりです。
その最中、このようなnoteが書かれました。
とても読みやすいですし、面白いですし、内容も豊富ですし、論理的でもあるし、人気もあります。しかしこのnoteを見た瞬間私の口からはこのような言葉があふれ出してきました。
「この青眼鏡野郎がよぉ!」「クソが!」「ネタを全部かっさらんってんじゃねぇよ!」「私のような零細noteライターにもネタ残せよ!」「てめぇの血は何色だよ!」
理不尽極まりないと思うかもしれませんが、依存症ですから仕方ありません。さらにこのような歴史的な事件も起きてしまいました。
そうなんです。フェミというコンテンツはもう終わりを告げているのかもしれません。
そこで私は「ハッ」と正気を取り戻しました。
そうです。これは私の望んだ世界です。
「自分が解消する」ために、「文句をつける」ために、「承認欲求」のために「差別が残る事を望む」べきではありません。喜びこそすれ怒る理由はひとつもありません。
喜びをみんなで分かち合うと共に、この戦いはなんだったのか、ツイフェミとは何者だったのか。アンチフェミとは?これらについて整理して改めて振り返ってみましょう。
というわけで今回の内容は戦後処理です。いつも以上に無責任に独断と偏見を交えてお送りしたいと思います。
というくだりを書き始めていたんですが、オリンピック開会式騒動、ポストイットからの寄付運動とnoteパワーを使用してしまい後ろ倒しになってしまい、はや一か月経ってしまいました。
しかし、やはり以前とフェミとの争いの形は変わり「アンチフェミとは何者なのか」という疑問がタイムライン上でも囁かれるようになり、この記事も価値があると判断して急いで書いているわけです。
一か月前に書いてればもっと評価されたかもしれませんね。まあ言ってもしかたないので行きましょう。
ではスタート
1.私の願うフェミニズム
フェミニズムとは?という項目は幾度となく私のnoteに出てきた気がしますが、今回は「私が願うフェミニズム」について語ります。以下の3つです。
①男女ほぼ同権
②女性の主体性獲得
③パターナリズムからの脱却
①について:
「ジェンダー」だけではなく「セックス」があるために「ほぼ」としています。
私は「平等」よりも「公平」に重きをおきたいタイプなので、現代日本はやや女性に権利が偏っている気がしますが悪くないバランスだと思います。
要するに①はもうほぼ達成済みというイメージです。あとは細々したことを都度変えていきましょう。
②について:
そのまんまですね。全員ではないですが他力本願が過ぎる女性が多い気がします。もちろん男性にもいます。
「社会が変われ」「男性が変われ」と具体的行動を伴わずに無責任に叫んだり、具体的行動をすると思ったらせいぜいデモをするだけの「ツイフェミ」はまさに主体性と逆行する人たちだと思っています。ちゃんとやれ。
要は「会社が差別してる」と思ったらすぐに会社を辞めて、起業して差別のない会社を作ればいい。と思ってます。私はそうしてます。
ちなみにブラック企業がなくならないのも、文句だけ言って働き続けてる社員が「会社を甘やかし続けてる」からなくならないのだと思ってます。はやく辞めた方が良いです。自分のためにも社会のためにも。
③について:
ここが本題になると思うので「家父長制」「パターナリズム」とは何なのか?という事を考えて行きましょう。
2.フェミニズムの変容
本題に入る前に予め断っておくと、ここでフェミニズムの原義について争うつもりはありません。と言うのも、歴史上フェミニズムと定義付けられた、または主張をまとめられ、ひとくくりにされた第○派なる分別は、現代ではSNS、特にツイッター上では意味がない事を痛感したからです。
フェミニズム論争では「フェミニズムってこうだよね?」という主張に対して「それはフェミニズムじゃないよ」なるツッコミが入る様子を散々観てきました。
確かにフェミニズムには原義があって、それはそれで理解しているつもりですが、少なくとも2000年代序盤、私が義務教育を終える前後には前項①は大枠で達成されているように感じています。
しかし、その後にフェミニストたちはそれまでの「フェミニズムの権威」を盾に用いながら、自分達のワガママを押し通そうとしたようにしか見えませんでした。
そうして十数年、原義的にフェミニズムを標榜する人々とは言えない彼女ら、彼らが「我こそはフェミニストである」と名乗り行動した事で、フェミニズムは乗っ取られてしまったように感じています。
今の20~30代はフェミニズムに触れ始める時期には既にこの状況な訳ですから「ツイフェミ=フェミニスト=フェミニズム」の基準で判断する以外にありません。当然、40代以降とのジェンダー論争はチグハグになりますし、20代同士であっても現実のフェミニスト(≒ツイフェミ)を目の当たりにするツイッタラーと、原義であるフェミニズムを基準に論ずる人同士では話が噛み合いません。
そして昨今、フェミニズムは現代フェミニスト(≒ツイフェミ)によって剽窃され、原義が変容し上書きされようとしている段階にあります。学者様が偉そうに「フェミニズムとは~」と語ろうとも、目の前でギャーギャー騒いでいるのはツイフェミで、その彼女ら・彼らを止めようともせずに持ちつ持たれつで迎合するならば「もうそれがフェミニズムなんでしょうよ」と言わざるを得ません。
それならば永遠に終わりそうにないフェミニズムについてアレコレ言い争うのは青い眼鏡の御大に丸投げしてしまって、語りつくしてもらいましょう。
私はフェミニズムに拘ることなく、その振る舞い、「行為」を以って別の視点から分析し、解決に向けた取り組みを考えたいと思います。という隙間産業的noteです。
それでは以上を踏まえて話を戻し、改めまして「家父長制」「パターナリズム」とは何なのか?という事を考えて行きましょう。
3.家制度と家父長制
いつも通りwikipediaから
家父長制(かふちょうせい、ドイツ語: Patriarchat、英語: patriarchy)は、家長権(家族と家族員に対する統率権)が男性たる家父長に集中している家族の形態。「父権制」と訳されることもある。古代ローマに、その典型を見ることができる。
(Wikipedia:家父長制 より引用)
簡単に言うと「お父さん」に権力を集中させて、「家の事はお父さんが全部決める」っていうシステムですね。
選択、決断にはコストがかかります。そしてそこに責任も引っ付きます。それを話し合いで行うとなると時間や労力がかかります。だから誰か一人にそれを任せて、他の人は言いなりになるというある種合理的なシステムでもあります。
日本には家制度と言うものが存在しました。
例えば家制度では、戸主(親族の長)に家の代表者として絶対的な権限を与える代わりに、家産や家業を維持する義務を課したのです。
戸主が家業を蔑ろにして潰したり流行病で伏せたりすれば近隣住民からも爪弾きに合い、石を投げられ火を焼べられ、一家が路頭に迷う。だからこそ、戸主はより強権を発動して家長的態度をとるようになります。
また一見、それは男性特有のマッチョイズムにより実現されているようにも見えますが、当時も全ての女性が男性に対して従順であったという記録はありません。寧ろ息子や娘を甘やかす父親に対して、母親が「そんな事では一家が露頭に迷いかねない」「隣の家の旦那さんは・・・」と叱責し、戸主はより保守化し、家父長制が先鋭化するのです。
ちなみにうちの曾祖母も家父長制の例のような、「家名が」「家柄が」「先祖から引き継いだ土地が」とかばっかり言う妖怪みたいなババアでした。
一家で三世帯以上が暮らすのも当たり前でしたので、戸主の息子はいわば中間管理職。両親と妻、子供との板挟みに合いながら、自分に戸主の立場が回ってきた時には、また経験に習い保守的、強権的に振る舞ってしまいます。
ではその家に属する女性はどう感じていたのでしょうか。一人で歩けばいつ拉致や強姦をされて慰みものにされてもおかしくない時代、家が強ければ強い程に女性の権力も増します。家が強い。親戚も強い。あの一家に逆らったなら、この村・町では生きてはいけない、と生まれながらに教えられたならば、おいそれと襲う事は出来ません。
同様に家(親族)が強ければ、女性に従者をつけて買い物や旅行をする事も可能となります。より強い配偶者を得る事が可能になります。つまり家父長制を肯定し、家を強くする事そのものが女性自身を自由や幸福に直結していたとも考えられるのです。
大日本帝国憲法(明治憲法)では既に諸外国の近代的な経済活動や人権意識・規範が意識されており、営業の自由、職業選択の自由について活発な議論が行われたことが伺えます。
そうした個人の自由を尊重する潮目の変化から鑑みるに、家制度はそもそもが長続きするシステムではありませんでしたが、敗戦により強制的に廃止に追い込まれます。
1947年、基本的人権の尊重が謳われる新たな日本国憲法(昭和憲法)には、影も形も残らなかったのです。
〈研究ノート〉
明治憲法下の営業の自由の位置づけの非歴史学的方法による研究のためのメモランダム(金井重彦)
4.パターナリズムとは?
しかし、家制度が廃止されたからと言って、その概念とも言える家父長制まで直ぐに消滅する訳ではありません。
家父長制のwikipediaの続きです。
家父長制はパターナリズム (paternalism) ともいわれる。父と子の関係にしばしば見られるような、他者の利益を名目に他者の行動に強制的に干渉しようとする考え方のこと。父親が小さな子供のために、よかれと思って子供の意向をあまり聞かずに意思決定することから来ている。父子関係以外にも、医師などが、患者の健康を理由に患者の治療方針を一方的に決めるような場合も例に挙げられる。
(Wikipedia:家父長制 より引用)
基本的には「家父長制=パターナリズム」なんですね。
バイクの免許を取らせてもらえなかったり、門限があったり、髪を染めないとかピアス禁止みたいなルールがあったり、服装について決めごとがあったり、それらはパターナリズムです。
もちろん子供がそれを望んでしているのなら違いますが、親が勝手に決めていたらパターナリズムです。当然ですが「お父さん」じゃなくて「お母さん」がこれをしていてもパターナリズムです。
もっと簡単に説明するなら
「おせっかいババア」とか
「昭和の頑固ジジイ」とか
「お見合い持ってきたおばさん」とか
「バンドマンみたいなわけのわからんことしてやんと定職につけ!そんなんやったら結婚できひんぞ、俺がええ就職先紹介したるわおじさん(イライラ)」とかみんなパターナリズムです。
恐ろしいことにここが解っていないフェミニストがたくさんいます。「私たちは女だからパターナリズムにはなり得ない」とか思っている人が、というよりその発想すらしていなかった人がたくさんいると思われます。
ちなみに私は医療資格を持っていて、現在も別の医療資格を取りに大学生をしているのですが、「医療者としての倫理」みたいな講義で「パターナリズムはダメ」って早い段階で習います。多分どこの学校でもそうです。
「クライエント(患者)中心の医療」「インフォームドコンセント(説明と同意)」みたいな事を口を酸っぱくして言われます。
でも当たり前ですよね?自由主義の国なんですから。権力の勾配がある人、家ならば金のある親、病院なら知識のある医者、学校なら成績を握る教員等々の人が勝手に決めるなんてもってのほかです。
5.フェミニストとパターナリズム
冒頭②では女性の主体性獲得に触れました。主体性獲得とは何かと手短に言うと、「自己決定権を行使し、行動し、その行動の責任を取る事」だと私は思います。
例えばフェミニストは「女の政治家を増やせ!女の管理者を増やせ!女の社長を増やせ!」みたいな事を良く言ってませんか?
ストローマンと言われたら困りますが、具体的なツイートを上げると角が立つので各自検索してください。わんさか出てきます。
でもこれらを見て下さい。
引用:中小企業白書2014 第二節 企業までの道のり
昇進意欲の男女比較:川口 章
とまあこのように専業主婦を望んでいる女性は少なくないし、管理職を希望する女性は男性に比べて少ないですし、起業も同様です。政治家は立候補者数の割合がそれを物語っています。
「女性の希望者は少ないから男性よりも総数が少ない。」これってごく自然な事ですよね?
自己決定権を行使して、管理職になる事を希望せず、政治家に立候補する事も希望していないんです。
これを言うとフェミニストからは「女性にそのように思わせるような土壌がおかしい。社会からの圧力を受けている」みたいな事を言います。そして「政治家になって、管理職になってバリバリ働いて、企業をどんどんして活躍した方が女性にとっての幸せなんだ!」と続けます。
そして専業主婦になる事を望んでいる女性も多いです。専業主婦になる為には上昇婚をするしかありません。低所得の男性と結婚しても専業主婦にはなれませんから。
当たり前なんですけど、女性は一人一人意志を持った人間で、シミュレーションゲームのAIを持たされたNPCじゃありません。「自分で決めて」います。
人の幸せを勝手に決めて、「その人のため」と言いながら意志を無視して何かをすることを何て言うんでしたっけ?
そうですね。「パターナリズム」ですね。
ここで出したのは一例ですが、「性的な表現があったら子供の教育に悪影響をもたらすから辞めろ」とか「高校生やのに美術のコンクールでいやらしい絵を描くのはけしからん!」とか「小児性愛者は精神障害の犯罪者予備軍だからそいつのためにも治療を受けさせろ」とかありますよね。最近では「小田急のためにやっているんだ」なんてのも見かけました。
なんだったら「私たちの言ってる意見が正しい。あなたたちみたいな不勉強で価値観の古い人間を導いてあげているんだ。感謝しろ」くらいに思っている節があります。
彼女/彼らは最早「パターナリズム」の権化です。
敢えて言わせてもらうなら女性(名誉男性は除く)だけが自由に振りかざす事ができ、一切の責任を取らずとも良く、そしていかなる希望も実現できる、言うなれば「家父長制の乗っ取り(※ただし責任は負わない)」こそが真の目的だと私は睨んでいます。要するにただのワガママです。
度々登場してもらって申し訳ないですがこれです。
出典:冨樫義博 『HUNTER×HUNTER 36』
もちろん、こんなものが世間一般に通用する訳がありませんが、余りに不勉強でメタ認知能力が低いので、他人からそう見えている事には気が付かないでしょう。
以上から、現在のフェミニストは女性の主体性の獲得を「家父長制の乗っ取り(※ただし責任は負わない)」と考えていて、私の望む「自己決定権を行使し、行動し、その行動の責任を取る事」とは真逆であると考えています。
6.アンチフェミって何者?
まず「真アンチ」と呼ばれる界隈の人としたDMを提示します。(もちろん許可は頂いております)
とまあこんな感じです。この人とDMして本当に驚きました「こんなやべぇ奴が普通にいるんだ」と。
この人の言ってることはシンプルです。「女性の自由を制限しろ」要するに「家父長制(※ただし自分は行使する側)の復活」です。
ちなみに自分の意見をまともに持たず、考えることもできずにアルファツイッタラーを学者か専門家と勘違いして「一般人には無理」とか言っちゃう人でした。これには笑っちゃいましたね。
この人の他にも「女性の教育を制限しろ」とか「モテない男に女をあてがえ」とか言う人もいます。
ここで言いたいのは、私たち「アンチフェミ」と呼ばれている人の多くはこうじゃありませんよね?
ここで私はフェミとアンチフェミの真実の構図に気付いたのです。
「フェミニスト」と「真アンチフェミ」が「家父長権(無責任)の乗っ取りvs家父長権(行使のみ)の復活」というクソくだらない争いをしていて、それらの流れ弾を受けて迷惑を被って平和を叫んでいる一般人こそが「アンチフェミ」の正体なのでは?と。
ツイッターでも最近このような声が上がり始めていて、マスナリジュン氏(@msnrjn)も「最近ではアンチフェミの行動が変わってきて、善行をするようになってきた」みたいな事を言ってました(うろおぼえ)。
しかし、そもそもの正体が「一般人」で、みんな普通に良い人だと思うんです。だから目に見えてこなかっただけで、きっと今までも良いことをしてきたのでしょう。
そして「アンチはフェミがいて初めて存在しうる。中身はからっぽだ」みたいに言う人もいますが、違います。「家父長制(※ただし責任は負わない)へ反旗を翻す者たち」なんです。そして彼ら一人一人には「〇〇イスト」といった肩書がなくても「一般人」である時点で十分に中身は詰まっています。
そういえば私の立場を明言していませんでしたね。私は「フェミニスト」でもなく「アンチフェミ」でもなく「リベラリスト」です。
そもそも「フェミニズム」は「リベラリズム」の一側面だと思っています。「リベラリズム」は「フェミニズム」を内包しています。
そして「アンチフェミ」と呼ばれる人のほとんどは程度はあれ「リベラリスト」なのではないでしょうか?
「アンチフェミ」のアルファと呼ばれている青識亜論氏もどこからどう見ても「リベラリスト」ですし「表現の自由戦士」を自称しています。
だから「アンチフェミ」の呼称を敢えて変えるなら「一般的なリベラリスト」で良いと思います。
「私はリベラリストではない!」という方や、「リベラリストなんて意識したことない」という方もいらっしゃると思います。
しかし日本は「自由主義」の国であり、そこに反対する人はあまり多くないと思います。無意識にリベラリストになってるんです。もちろん「リベラリスト」でない人を否定しているわけではありません。それこそ「自由」ですし「多様性」ですからね。
日本は「無宗教の国」と言う方もいますが、多くの日本人は神道と仏教、アニミズムも無意識に信仰していると思っています。無意識に信仰というのもおかしな表現ですが。
ある人(先日消えたネカマ)に「アニミズムは小学生で卒業しろ」みたいな事を言われてびっくりしました。物を大事にする行為や「もったいない」という言葉に疑問や違和感を感じますか?もし感じないならアニミズムが浸透している証拠です。
このように「無意識」に浸透するのが日本人の良いところだと思っています。もちろん悪いところもあるんですが。
私たちは「無意識」に何かを抱えている故に、その何かに鈍感です。そしてその何かは本当は「大切なもの」なんです。
だからそれを「パターナリズムの権化」による様々な侵略行為を受けて初めて大切さに気付き、守ろうと反発して「アンチ」という行動を取るのだと思います。
まとめましょう。
さいごにーパターナリズムからの脱却
さて、このnoteの題名は「フェミニズム vs 家父長制」です。
しかしこの考察のように、フェミニズムは原義から変容し、フェミニストがパターナリズムを自由自在に操ろうとする姿が散見されるようになりました。
その結果、かつてフェミニストであった女性は、フェミニストを名乗る女性からパターナリズムにより抑圧され、名誉男性と呼ばれ、フェミニストを名乗る事に懐疑的になり、名乗る事を止めたのです。
自由や自己決定権を大切にし、パターナリズムを否定しながら、それを否定する方法が「家父長制(※ただし責任は負わない)の復活」では賛同を得られるはずもありません。
ではフェミニストは何と戦っていたのでしょう。
それはきっと、自分自身が内包するパターナリズム、家長的態度ではないでしょうか?自分自身が自由になりたいが為にパターナリズムを否定しながら、自らは自由を得るためにパターナリスティックな行動を取ってしまう。
しかし、ツイッターを見るにこの手法が受け入れられないのは自明で見放されるのも時間の問題のように見えて仕方がありません。というより見放されています。
もし自分が「自由」を大切にしているのだと気づいたのであれば、他者の「自由」も大切にする事を意識して欲しいのです。
一方、若い頃には大嫌いだったパターナリズムが、年齢を重ねるに連れ別の何かに感じ方が変わった方がいらっしゃるかもしれません。
「バイクの免許を取らせてもらえなかった。門限があった。髪を染めてはいけなかった。ピアス禁止。ミニスカートはダメ。スマホは大学生から。団地の子と遊んじゃだめ。
もしかしたら、これは親の愛情だったのかな?と。だから今の幸せな私がいるのかもしれない・・・。」
しかし、それが最も良い方法だったのでしょうか?私はそうは思いません。禁止して縛り付けるのが最も楽な方法であり、怠慢とも言えます。
もちろんリスクの高い行為は排除した方が良いと思います。しかし「あれはダメ」「これはダメ」「破ったら罰」といったやり方では自主性は育まれず、人に言われたことを守るしかできなくなり、結果「自由」と「自分勝手」の区別がつかない人を育ててしまうのです。
そして、その人はまた自分の子供にパターナリズムをもって育てるのだと思います。その結果が現在のフェミニズムなのかもしれませんね。
だからパターナリズムを捨てましょう。これは本当に難しいことなのを理解しています。娘と接するときに何が一番正しいのか、どうすればいいのか毎日悩みながら生きています。
もちろんパターナリズム捨てることを強制もできません。しかしみんなで捨てれば幸福な世の中になる気が私はしています。
自己決定権を行使する事は、自由に他人を殴り、他人の自由を侵害する事ではありません。自己決定権を行使し、行動するからには責任も伴います。その責任の重さを推し量る想像力を持つ事と、行動する意志の強さの両方が伴って始めて、自己決定権を行使すると言えるのです。
みんなが自分の「自由」を守り、他人の「自由」を侵害しないよう互いに意識をすれば自然とパターナリズムからの脱却は成され、戦後処理は少しずつ進むと信じています。
いまだかつてないクソ長文になってしまいましたがお付き合いいただき本当にありがとうございました。皆様の幸福を願って。
またいつか。