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耳に入ってくるものについて

チョー激務というより、ハードワークな日がなかなか終わらない私に「おい!これ観なよ!」と強く勧めてくれた映画が「サウンド・オブ・メタル」。実際にはもっと穏やかな口調で「なんか知らないけど、とにかくね、これを観てみてね」的な言い方だったので、「よっしゃー観るか!」とAmazonプライムでポチッと。

耳が聴こえないということを仕事柄、色々な人(多分1,000名以上)に話をしてきたけれど時々、「うん、聴こえないってこういうことだよね。なるほどね。ピンとこないけれど」というコメントをいただく。ピンとこない=実感が湧きにくい。共感しにくいというわけではないのに、なんだか「ああ、そうか」と一抹の寂しさを覚えたり。まぁ、確かに、耳が聴こえている立場で「聴こえないことについて」考えるには想像力をフル稼働しない限り、本当に、本当に実感しにくいのかも。と、なんとなく感じていた。

ところが、この「実感しにくいのかも」という経験を私自身が味わうことに!

この映画は、主人公が途中で聴力を失い、これまで築いてきたキャリアが崩壊していくことに耐えられなくなり自暴自棄になるけれど、手話を使ったコミュニティとの触れ合いや人生のメンター的な人との出逢いにより人生が変わるという内容。個人的にはストーリーが良かったし、「聴こえない人」という視点を深めつつ、周囲の反応も含めて可視化できる良作だと思う。

これを観た時、「この場面、もしかして音がないのかな?」と時々気になった。主人公の耳が聴こえなくなっていく、という過程を視聴者にも共有できるよう、体感できるよう工夫したのだと思う。

ところが、音が全く聴こえない私にとって、この場面はデジャビュというか、いつも見慣れている光景の一つに過ぎなかった。この時、「実感しにくい」というのはこういうことなのか!と初めて実感した。「ああ、聴こえにくくなる。音を失っていく不安な気持ち、実感できないけれど何となく理解できる」。それは、私の話を聞いた聴者が「聴こえないって不安な気持ちになる時があるんだね、実感できないけれど何となく理解できる」と発するのと同じなのかもしれない。

実感はできなくても、共感はできる。理解はできる。言葉の重みだけでなく、映像の描写によって感じることが次々出てくる。それを言語化しながら聴者の感想を聞いてみたい。

耳に入ってくるもの。それは空気であったり、ホコリ(⁉︎)だったり。

でもそれ以上に他者を知るため(関わりを持つため)の情報が自然と入ってくる。この感覚は実感しにくいし、きっと永遠に私は実感することができない。でも、耳に入ってくるものは何となく理解はできる(と思うようにしている)。

この映画を観終えた時、あらためて尊敬の念を抱いた。にいまーるで手話を学ぶ優秀なスタッフたちがこの実感しづらさを感じながらも耳が聴こえないということはどういうことなのか」について、真摯に向き合っている。

まだ観ていない方は是非!


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