日本褒めしたがる心理

わたしはいま実家に帰っているのだが、60代の父の見ているものがなかなかエグいなと思っている。

まずひとつにテレビ番組なのだが、白人が日本のグルメを食べて美味しいと言うものか、クイズ王か、動物くらいしか流れていない。

そしてYouTubeで見ているのもまた、馬鹿みたいなハイトーンで媚びた英語を話す日本人が白人に日本の飯を食わせるもの。日本がいかにすごいかというもの。保守を自称する政治家のYouTubeなどである。

そして父や母は、ことあるごとにやっぱり日本はすごい、という。
わたしは日本にはすごいところもあるがどうしようもないところもたくさんあると思うので、違和感を抱く。たとえば自民党についてわたしが批判しようものならお前はリベラルだからどうしようもないなみたいな空気になるし、「最近日本がダメだという人が多いが日本はすごいんだ」と怒っている。

わたしたちは日本人であるので、日本という国はわたしたちのアイデンティティとわかちがたく結びついている。そして国や政治への態度というのはその実、自分自身のありようと密接に関わっているのだと感じる。

日本がほめられ、SHOGUNがエミー賞をとると、鼻高々になり、白人が寿司のうまさに目を丸めると腹の底から満足する。
私はなんとなくそのありようを不安におもう。
外部の賞賛やステイタスでしか自分を確認出来ないことの裏返しのように見えるからだ。

日本は長年アメリカの植民地である。
わたしはいちど人生に躓いたとき、自分のルーツを探ることをしたが、やはりそこには、親子三代つづく戦争の爪痕と、アメリカの啓蒙主義に毒された日本社会のゆがみを感じた。

わたしたちは、いったい、褒められる必要なんかあるのだろうか。どうしてアメリカ人に褒められて喜ばなくてはならないのだろうか。日本はやっぱりすごいんだと、なぜ寿司を食う外国人を見ながら唱えなければならないのか。

その情けなさに気づけないのは、前提を疑うことが難しいからだが、われわれは西洋だの他者との比較ではなく内在的に人間としての価値を持っているし、それを自ら確立すべきなのではないか。

もちろん褒められる良さはあるだろうが、たとえばたいして努力をしていないときに安易な賞賛を欲して現実逃避すること自体、じつのところ自分を大切にする行為では無いと思う。
外部の褒めを必要とするときの人は、自己愛(愛と言うより、執着だ)は強いけれども、本当の意味で己を大切にしているとは思えない。

そして前述したような動画の再生回数が酷く伸びているということは、日本人ぜんたいが実際のところかなり自信の無い人々で構成されているということだとおもう。
そうすると、日本はすごいんだ、自民党はちゃんとしているんだ、ということが、自己価値とがっちり結びついてしまう。だからその権威に縋り付き、意見を翻せないのである。自分に意見などないか、あっても他との比較で抑え込んでいる。
膠着した日本の政治の有り様は日本国民の根本的な気弱さや卑屈さ、自分の価値を自分で決められない幼さから来ている。ではその卑屈さの根本にあるのはなにかというと、長く続く植民地支配なのだとわたしはおもう。

日本はまた、アメリカの都合で戦争に向かっている。少しでも、自分で自分を大切にする人が増えて欲しいとねがう。



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