卑下するな

わたしの祖母は料理がうまい。
だけど、「不味いだろうけど」といいながら出してくる。
もう何年も。それが本当に嫌だった。

昭和平成の美徳なのだろうが、わたしは卑下が大嫌い。きもちわるい。
受動攻撃だし、支配的な振る舞いだからだ。

不味いだろうけど→「あーまずそうだね、いらないわ。捨てて!」
ブスだし→「ほんとにブスだし早く整形すれば?」
こう言ったら、一丁前に傷つくんでしょ。
本当にそう思っていたらガハハと笑ってその通りってなると思うのに、卑下する人って繊細ぶって傷つくんだよ。
つまりその人から引き出したい言葉がある。どっかでナルシストなんだよね。

そんなことないよ。って言われたいんだよね。

世の中を見渡すと、ブスでも幸せそうな人ってたくさんいるし、辛い境遇からハッピーに生きてる人もいる。もともとハッピーな人もいる。

それは、自分がどれだけ不幸か・我慢してきたかとはなんの関係もない。

すごく当たり前のことを書いてるのだが、これがわからない人が多いと思う。
たとえば自分が人前に出るときに化粧をガチガチにするとする。そうしなきゃいけないと思っている。
だとしても、他人がきちんと化粧しなきゃいけない筋合いはひとつもない。化粧しなくても幸せな人はたくさんいる。
そのとき嫉妬するのも、地団駄踏むのも、軽蔑するのも良いと思うが、化粧をすべきだなんていいだしたらおしまいだ。
あんたは自分でそうすると決めただけなのだ。まわりがどうでも、自分が決めたんだ。

受動攻撃や察して攻撃をされたときに、だから何でお前と同じ生き方をしいてくるんだ?と思うが
ギャンブルと同じで、自分が自分を蔑ろにしたぶんに気づくのが悔しいのだと思う。
人生は自分で満たさないと満ちてゆかないと気付くのは怖い。それまで自分で自分を蔑ろにした時間は、無駄に近いんだとわかる。我慢して嫌なことをした時間、自分の本音を飲み込んだ時間、世間様の幸せに当てはまろうとした時間。
それらが自分の本質的な幸福には一切寄与しないと気付くのは怖い。
だからひとは卑下をするのだろう。

世の中は残酷でシンプルだ。
目の前の鳥の丸焼きを食べたいなら手を伸ばして食べればいい。
手を伸ばして食べたやつが食べるのであり、行儀よく手を揃えてみたり、めかしこんでみたりしても、自分で手を伸ばさないならそれはいつ与えられるかわからないギャンブル的なものになる。

わたしは自己卑下のギャンブルには参加しないし、そのゲームにわざわざ参加して被害者顔するやつらはみんな嫌いである。




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