努力に(ほぼ)意味はない

努力には意味がない。

「人生は運ゲーである」という考えとおなじように、
歳をとるごとに確信をつよめていることのひとつである。

努力って、だいたいある目標に向けてやることだと思う。
一般的に、
目標達成=努力×才能×環境etc
と思われてるけど、
目標達成=目標達成する
のほうが正解にちかいと思う。

努力には「がんばった感」がある。
そのがんばった感が「自分はイケる」と思わせてくれる。
じつはこの「イケる」と思うかどうかの部分がでかい。

わたしはすこしまえに、お金持ちのもとで働いていた。
そのお金持ちは一件につき500万円〜1000万円のギャラを請求する。
内容としてはそんな働いてない。遊んでばかりいる。
だけど都心の一等地にオフィスを構え、超高級車を乗り回している。

そのお金持ちは自分が金をもらうことになんの躊躇もなかった。
わたしが彼と同じくらいの働きをしたとして、
せいぜいがんばっても「月に100万で…たはは」と卑しく笑う程度であろう。
そういうわたしが彼と同じ年収を得るためには、五倍働かないといけなくなる。

*

僭越ながら、わたしは東京芸大に合格したことがある。
まったく別の学校に行っていたのだが、絵の最高学府に合格できた。
なぜか。絵が好きだったのはもちろんだし、努力はしたにはした。
でも、予備校の先生に最初の夏期講習で「最低な絵」みたいに言われたのにもかかわらず、合格し(てやっ)た。

それはひとえに「イケんじゃね? てか、イク」と心の底で思っていたからにすぎない。実力とかそういう話ではない。もちろん対策はしたのだが、問題はそこではない(実際わたしは、石膏デッサンをほぼしなかった)。

イケんじゃね?という思いが、実際にイカせることになるのである。

詐欺みたいな話だけど、それをわたしは芸大の受験で体感した。
そして最近また、くだんの金持ちのところで再体験したのであった。

金持ちは、「自分が金もって当然」って思っている。
金ほしいなら、がむしゃらに働くより「金持って当然」ってしんから信じられるような心をつくっていくといい。
金持ちになるための努力なんかしなくていい。
それでなったら、一生金持ちになりたいまま終わるか、仮にお金を持ってもいずれ失う(そういう小金持ちっていっぱいいる)。

でもこういうことって世の中に色々ある。
実家太い人はなんだかんだうまくいくこと多い。
でもそれは実家太いのが当然だから「自分はこの程度の生活が当然」と思ってるだけ。

恋愛うまくいかない女がいる。
表面でいくら頑張っても、「自分にはこの程度の男がお似合い」と深い場所で思っているから、いつもダメンズばかり選んでるだけ。

だから、深い場所で自分がどんなイメージを持っているかってことが相当大きく作用しているとわたしはみている。7割くらい。
その7割を作るベースがほぼ運なのである。人、環境、親、能力。
人は運によるランダムな出来事で、自分の目標や幸せを達成できるか否か=その扱いが当然と思うか否かののバイアスをかけている。
バイアスが良くないものなら、どれだけ努力したとしても報われることはない。


これって引き寄せの法則みたいな話なのかな。

*

そして。
しんから「イケんじゃね?」って信じられることとなると、
結局、得意なことや好きなことに絞られていく。
ただ、このへんはまだちょっと曖昧なのだ。というのも、
得意なことは意識せずにできたりして、自分で価値がわからないことも多いし、好きなことは打算を働かせた途端失速するし、憧れを好きと勘違いしていることがかなりあったりする。
自己認識と他者認識のずれが起きがちなのだ。

でもひとついえることがある。
たいてい、本当にやりたいことというのは、やりたすぎて封印している
怖くて、それをやりたいことを見ないようにしている
だから、そのガス抜きのために見当違いなところで努力して失敗するのである。問題はそこじゃないし、あなたがやりたいのはそれではないだろう、ということが、人生うまくいかない期には頻発する。

自分を直視したとき、真顔の自分が「これをしたいんだ」ってぽつりというようなことをやるといい。
それをやったとき、あなたはたいした努力もなしになぜかぽっと成功するだろう。そして十年もすれば、運が良かったです〜と笑っている。
わたしにはわかる。

わたしは努力にはほぼ意味はないと思っている。
だけど同時に、努力は人を美しくするものだとも思っている。

がむしゃらな努力は、イケる感覚に繋がらなければ最後には散る。
むだな努力、結果の出なかった努力に死ぬほど時間を費やしたあと、手元には何も残らない。

それを経験した人にしか見えていない景色があることも、わたしは知っている。
芸大に行く前、そういう無駄な努力に人生を費やしていた。生きてきた全部が無駄だったのだと知った。
わたしはその景色を、感触を知っている自分を、美しいと思う。

「諦める」には、「極める」「明らかにする」というような意味がある。
やりつくしたからこそ、諦めることができるのである。
逆にいうと、諦められないなら、まだ何もやりつくしていない、のである。
だから、やり尽くしてダメだったことがあるなら、それは素晴らしいことなのだ。

努力を通じて自分の限界を知り、絶望したことのある人は、
そうでない人よりもぜったいにうつくしい。
そのかぎりにおいて、努力は人生に意味を持つとわたしは思う。


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