わたしとPOAROと15年間
2005年。小学6年生の春休み。
祖母に譲ってもらったポケットラジオをつけて聞いていたのは「智一・美樹のラジオビッグバン」だった。当時、桝田省治さんの作るゲームが好きで(多分に父親の影響を受けている)私は中でも「暴れん坊プリンセス」に熱を入れていた。
プレイヤーの代わりとなるキャラクターのシオンを気に入って、何度もさまざまなルートでプレイして。おまけの設定資料や声優インタビューを集めて、桜瀬琥姫さんを真似てイラストを描くようになり、わたしのいわゆるオタク活動の源泉はここにあった。
シオンのキャラクターそのものから、声をあてる関智一さんに興味が向いてビックバンに辿り着くのにそう時間はかからなかった。
ラジオ。
ポケットラジオで放送を聴きながら家事をする祖母を見ていたから、なんとなくは知っているけれど、関さんが出演する「ラジオ」ってなんだろう。
その頃のわたしにとってのラジオはおじいちゃん・おばあちゃんが「ながら」でニュースや交通情報を聞く、ちょっとおかたいメディアだった。
タイミングよく祖母がポケットラジオを新しいものに買い換えたと聞きつけて、お古を譲ってほしいとねだった。
暴プリのおまけ音源のインタビューの中で、関くんってシオンくんなんだよって枡田さんが話すのだけど、ラジオを聞いてインタビューから想像していた関さんとそのギャップに小6のわたしはひどくショックを受けることになる。よくそこでコンテンツから離れなかったなと今でも思う。
日曜日。22時までにお風呂を済ませて妹と共有の自分の部屋にこもる。
初めて能動的に触れたラジオというメディアは小6の私を引き込むには十二分の魅力を秘めていた。
A4のコピー用紙を広げて、シャーペンで落書きをしながら面白かったワードや流れを書き起こしていく。
ラジオ文化にどっぷり浸かった私は、21時以降は自分の部屋にこもってラジオを聴きながらコピー用紙にシャーペンを走らせることが日課になった。
チェリーベルや井上商店、アニスパ…あの頃が一番多くの番組を聴いていて、野球の延長が何より憎かった。
当初、お父さんこと井上健は鷲崎さんと別人だと思っていたし、ラジオを聴き始めて最初の関さん長澤さん結婚報告は信じておめでたいと祝っていた。メディアリテラシーは実地で揉まれていくものですね。
いくつかのラジオ番組を聴くようになってすぐに、わたしの興味は「POARO」にも向くことになる。
POARO
ビッグバンのオープニングとエンディング。トークの後ろに流れる歌詞を聴き起こしてメモしていたこの曲は、どうやら時折放送で笑い声が聞こえる伊福部さんと、アニスパに出ている鷲崎さんのお二人が作っていて、POAROというユニットで活動しているらしい。そしてPOAROのCDは、アニメイトっていうところで買えるんだとか。私とPOAROの出会いは曲だった。
親と所沢のダイエー(いつの間にかイオン所沢になっていた…)に入っているアニメイトに足を運んで、POAROのCDがほしいとねだった。
たしか店頭にはサルタヒコ復活編とおもちゃやめぐりが並んでいて、記念すべき1枚目におもちゃやめぐりを選んだ。改めて調べてみると、両アルバムが発売されて割とすぐのタイミングだった。
中学生当時、お小遣いもなくCDもねだったことのない娘が初めて欲しがったCDのジャケットが奇面組で、親はどう思ったんだろう。
ほどなくしてサルタヒコ復活編も買ってもらった。嬉しくて購入時のレシートもとっておいていたのだけど、いつの間にか日に焼けて印字が見られなくなってしまって、レシートは捨ててしまった。
ほぼ初めて自分の意思でねだって買ってもらったCD。
ブックレットの折り目が擦り切れるまで歌詞を読んで、書かれている文章、画像の細部まで何度も何度も見返した。
2006年
東京国際アニメフェア
妹も一緒に父にTAF連れて行ってもらって、ビッグバンのステージを観覧した。専門学校のブースを見てみたり、資料をもらってみたり、Kistyから実写ver.ジャケットのCDを買ったりしながら、開演を待った。これが生まれて初めて生のPOAROを目にした現場だった。確かブリスターはあけないを歌いながら登場されて、13歳の私はステージからずっとずっと遠い席でお二人を眺めていた。
中学生
すときゃ! 3番組合同イベント vol.2
その2ヶ月後。今改めて考えるとぞっとするけれど、父親に頼み込んで『すときゃ! 3番組合同イベント』に連れて行ってもらった。
開演前、父がお手洗いに行っている間、座ってぼーっとしていたら、全然知らない人に「お疲れ様です〜」と声をかけられたので、イベントってそういうものなんだ…不思議な文化だなぁとそのまま嚥下して、会釈した。
POAROがサインボールを投げていたこと、みんなでおちんちんの大きさを比べに袖に戻ったこと、終演後にPOAROが普通に外に出てきてお客さんと話しているのを遠くからチラリと眺めたこと、ポツポツと断片的に覚えている。
鷲崎さんが渡会さんとアニメイトに行った(と記憶している)話を小耳に挟みながら、父にお小遣いをねだって、kistyのイラストver.ジャケットのCDを買いに並んだ。ジャケットは違えど同じCDを複数枚持つことに、父は母さんには内緒ね、と一応の約束をしてお財布を出してくれた。父っ子でよかったと思うと同時に、「ああいう形で譜面台が出てるライブ初めて見た」と呟いていたのを覚えている。清志郎もヒロトも、譜面台の印象はないもんね。
この日のチケットも、ずっと大事に保管している。
8月11日、晴れ、風邪をひいた
POAROファンになって初めてシングルが発売された。
わたしが人生で初めて手にしたシングル。音楽プレイヤーに取り込んでとにかく聞いた。
ジャケットのデザインがとってもお気に入り。当時もだけど今見ても、カレンダーのアイディアも視線が誘導される色使いもデザインも、散りばめられた小ネタも大好き。
POAROの新しいデザインワークが出るなら絶対にきゅうりさんに作って欲しいと、ずっとずっと思っている。
ふっかつのじゅもんがちがいます。発売
ふっかつのじゅもんがちがいます。の発売とインストアイベントを聞きつけて、アルバム発売直後に池袋のアニメイトへ足を運んだ。
当時オタクリテラシーなど皆無に近かったわたしは、その場でCDを購入するも、インストアイベントの整理券配布は既に終わっていたことに落ち込んだ。
そのときはじめて、私以外にもたくさんのPOAROファンって存在しているんだなと実感した。POAROがどのくらい人気かなんて全然知らなかった。
当時のわたしの世界には、わたししかPOAROファンがいなかったから。
アルバム発売日の前の週のアニスパにPOAROがゲストとして出演していて、カセットテープに録音した。何回も何回も聞いて、これだけは上書きしないようにとちゃんとラベルにメモしていた。
ラジオのために父にコンポの使い方を聞いて、どうしてもリアルタイムで聞けない日や、聞き直したい日の放送は録音していた。A面とB面が切り替わる時に空白の音声が出来てしまうから、長い番組はうまいことCMの間に切り替わるように計算してみたりして、うまくいったときの達成感はもう経験する必要もない悦の感覚なのだろう。メディアの移ろい。
放送委員だったので、CDを学校に持って行って、お昼の放送でも流した。
お昼休みにPOAROの話をしていたら「萌えてたまるかいいよね」と話しかけてくれた同性の先輩がいた。今どこで何してるんだろう。教育実習で来ていて仲良くなった先生にも貸した。
学生時代にハマったものは自分の小さな経験とたくさん結びついていて、より記憶も思い入れも強固になっているのか、よく思い出せる。
A&G年越し特番 チョー突猛進!カウントダウンLIVE SP
家族仲の良い我が家は、この年の大晦日の夜から初詣のために府中本町の神社へ一緒に向かっていた。道中わたしはチョー突猛進!カウントダウンLIVE SPをポケットラジオで聞いていて、「12月31日、晴れ、風邪をひいた」にいたく喜んでいた。電車に乗るとトンネルばかりで電波が悪くなるからと、POAROの出番が終わるまで最寄り駅に着かないようにできるだけゆっくり歩いたので、親に急かされた。
10年以上経って、チャリティーライブの時に、みんなに8月11日歌ったら絶対やってね!と言い回っていたけれど、いつかこのコールをしてみたいと今でも思ったまま、果たせないでている。
最近ステイさんがツイートされていて、一人でとても興奮した。
全然反応ついてない…:(
2007年
ビッグバン放送時間変更
ビッグバンを聞いて丸2年。日曜日22時だった放送時間がもっと深くに変わった。
中学2年生だったわたしにとって、毎週日曜日の2時まで起きて翌日学校に行くことはなかなか容易ではなくて、最初の方は仮眠を挟んで起きて聞いたりしていたけれど、それも叶わないことが多くなり、徐々に疎遠になっていってしまった。
かわりという訳ではないけれど、他番組への熱量が増していった。
携帯電話
定期テストで5教科合計450点とったらね、という親との約束をかいくぐって、携帯電話を買ってもらった。当時は月に1000円分使うと強制的に止まるプランで、友達から送られてくるデコメに容量を圧迫されていたことを思い出す。
わたしにはデコメを使わないでねと伝えた親友の返信で「ごめんねぇ」の「ねぇ」がデコメだったときの気持ちは、今でも鮮明に思い出せる。あの頃特有の若くて自分達だけが特別だと思っているような眩しい勘違いをメールに認めて、お互いによくわからないポエムを送りあった。
POAROの着うたを買って、好きな先輩の着信音や通知ランプの色を他の人とは変えたりして、実に可愛らしい設定をしていた。
携帯を買ってもらってすぐにモバちゃんに参加して、毎回鷲崎さんに投票してポイントをためていた。完全な贔屓票。
いまでこそ呼ぶこともできないけれど、中学生当時の私は完全にアニスパの影響で、鷲崎さんのことをたけちゃんと呼んでいた。
今でもとってある、友達とそれぞれの趣味を書きためたノートには、アニパラを見てたけちゃんがこうだったああだったと書き連ねてある。
(もし今、私が何か不慮の事故で死んでしまったら、このノートを見たいと言ってくれた朝生ちゃんに渡してほしい。笑ってね。)
一緒に通学していた友達に「アニスパきいた?」「チェリベ聴いた?」と話しながら、中学校までの長い道のりを潰していた。
その子は大学から地方に行ってしまって長いこと会ってもいなかったのだけど、浅沼さんから鷲崎さんを久しぶりに見かけて私を思い出したと連絡をくれて、ラジラジの千葉翔也さん出演回の現場で再会することになる。
いまだにずっとPOAROを好きで居続けていることに驚いていた。
16in1発売
16in1が発売される時も、アニスパにPOAROがゲストとして出演していた。
ベストアルバムを作った本当の理由、「け…」「けーはあかんやろ!!」みたいなやりとりがあって、当時の私は一体何のことか本当にわからずに、コピー用紙に「け…?」と記した。純無知ガール時代。
POAROを知ってCDを手に入れてから、POAROのラジオに触れるまでには、結構なタイムラグがある。
「ポアロのあと何分あるの?」の存在は知っていたけれど、当時パソコンは家族共有で使用していたし、BBstationは会員登録が必要だった(気がする)ので、当時のわたしの環境やリテラシーでは聞くことは叶わなかった。
ちゃんとあと何分を聞けるようになったのは、妹と部屋が分かれて自分用のパソコンをもらえたタイミングだったと思う。
2008年
中学校の卒業式の日、一番仲が良かった友達と友達のお父さんに吉祥寺に連れて行ってもらった。
吉祥寺のアニメイトに寄りたいとお願いして、所沢にはもう在庫のなかったUSO800を、お小遣いで買った。
中学を卒業した記念に、吉祥寺のゲームセンターでUSO800を片手にプリクラを撮った、髪の毛が短くて男の子に間違われるような、制服以外にスカートなんて一着も持ってなかったわたしは、どれくらい長くファンで居続けることを想像していたのだろう。
東京国際アニメフェア
高校生にあがる直前の春休み、TAFに「飯塚雅弓・鷲崎健の超ラジ!AF」を見にいった。ブースに近いエリアには大人の人がたくさんいて、このときも遠くから眺めていた。鷲崎さんがチラシで紙飛行機を折って飛ばしたり、グッズか何かを投げたりしていて、それをスタッフさんがせっせと回収していた。たぶん。
ビッグバンの箱番組、飯塚雅弓のアソビ研究所も聞いていたこともあって、飯塚雅弓さんのアルバムも買っていたので、お二人とも好きだったことや当時の想い出も乗っかって「message」は好きな曲の中でもかなり上位に入る。着うたももちろんDLしていて、着信音に設定していた。
高校進学
高校の進路について悩んでいたときに、「映像芸術科」がある学校を教えてもらった。イラストは描くけれどデッサンが好きではなかったわたしは美術科以外の芸術系学科に惹かれて、そこを受験することに決めた。
入試に普通教科の筆記テストがなく、実技試験と面接だけだったこともあって、偏差値いくつ以上の高校も同時に合格することを条件に、親に進学を許してもらえた。
体験入学に行ったとき、テレビスタジオが学校の設備として備えられていて、ラジオの収録も可能ですかと尋ねたら、できる、そういった授業もあると教えてもらってモチベーションが上がったのだけど、入学してみたらそんな授業は一コマもなかった。
高校生になると、芸術関係の学校ということもあって、いわゆるオタク活動が好きな人が多数派になった。それでもクラスに私と同じラジオを聴いている人も、POAROや鷲崎さん・伊福部さんを知っている人もいなかった。
当時はPOAROが好きだと公言する理由に、私だけが知っている特別さ、みたいな感覚も乗っかっていたと思う。
高校一年生のとき、鷲崎さんのソロアルバム「Silly Walker」が発売された。
POAROが好きだとクラスで話していたら、絵が上手い友人が誕生日に鷲崎さんのイラストを描いてくれた。その子がSilly Walkerを聞いて「この人歌上手いね」と呟いたとき、でしょう!と勝手に誇らしかった。
この頃が制作に対して一番前向きで、その頃のオタクらしく自分のサイトを運営して1日1枚イラストをアップしたり、夜遅くまでお絵かきチャットをしたり、クラスのみんなで自主制作映画を撮ったりアニメを作ってみたりしていた。3年間変わらない個性的なクラスのメンツに悩まされることもたくさんあったけれど、振り返ると一番楽しい学生生活だった。
2009年
ガラケーのSNS文化が一気に広まって、わたしもご多分にもれずmixiやGREEに登録していた。
ある日、GREEのメッセージで「その歳でポアロが好きな女の子ってどんな子なの?w」と話しかけられた。新潟のPOAROファンだという。
何回かメッセージの応酬をするうちに、当時、あと何分あるの?を聞ける環境下にないことを伝えると、その素敵なファンは定期的にラジオ番組のデータをCDに焼いては送ってくれるようになった。
ありがたい一方で、いつからかCDが届いたお礼の連絡をしないと、mixiに「俺はどうせ自動送信機…」と書かれるようになった。20才近く年上のおじさん、マメじゃなくてごめんね。
つい最近知ったことなのだけど、そのデータの中には「聞いたら消してくれよな」的な恥ずかしめのファイルが入っていたみたい(伝聞)。
当時も見てないし、それを知らずに友人に貸してしまってどちらにも申し訳ないね。まだ開いてません。
NO NEGATIVE, NO LIFE.発売
NO NEGATIVE, NO LIFE.は自分で店舗に買いに行った記憶がない。
親に通販か何かで買ってもらったのか、どうだったんだろう。
このときはPOAROはきっとこのままこれくらいのペースでアルバムを出すんだろうと漠然と考えていた。
2010年
719と私以外のPOAROファン
私以外のファンをネット上で知ってまもなく、719の開催が発表された。
当時高校生だったわたしはお昼の公録だけ申し込んで、わくわくしていた。
(今振り返ってみると判定考査もA席なら高校生でも全然買える金額…。門限は17時厳守のいい子だったからかな…)
GREEで話しかけられたおじさんと実際に会うことになり、わたしは緊張の最中会場に向かった。素敵おじさんのお知り合いにもご挨拶をさせていただいた。
「こいつはふつおた職人でね、ちょこちょこあと何分で読まれてるよ」
飛び交う名前に全然本名が出てこなくて、不思議な感覚だなぁと思うと同時に、GREEに設定していたハンドルネームで他人から呼びかけられて、初めての体験になんだかもぞもぞした。今では慣れっこだけど。
その後、ここで出会ったふつおた職人にマンスリーに連れて行ってもらうことになるので、719はわたしにとっての大きな転機だったと思う。
11月、POARO女子限定の開催決定発表。
詳細はTwitterでと見かけて、その時にTwitterをはじめた。以降同じアカウントを今も使用している。
12月、マンスリーに連れて行ってもらう予定をドタキャンされて、システムもわからず一人で行くには怖いので初マンスリーを延期した。年末に新潟素敵おじさんが上京するとのことで、ふつおた職人ドタキャンおじさんと一緒に飲んだ。
進路
高校卒業を控えて、進路を決めなければいけなかった。
映像科に所属してはいたけれど、アートや制作でこの先稼いでいけるほどの技術も熱量もセンスもないなと自覚していたこともあって、美大への進学はあまり考えていなかった。
珍しい高校だったことから推薦の枠がたくさんあって、誰も勉強をしない芸術高の特権で学科1位の成績だったので、推薦で進学しよう〜とだけ気軽に決めていた。
私が進学先を決めないと他の推薦希望の子が進路を決められないから早めに決定してねと担任に言われて、家から近いしという理由で高校の隣にキャンパスがあった大学の情報科に決めた。おかげで人生でちゃんとした受験勉強というものをした経験がない。
2011年
1月。
大学受験もすいすい終えて、改めてバイトを始めたこともあり、思い切って通しチケットを購入した。はじめてのマンスリーに連れて行っていただいた。想像よりもずっとステージが近い会場で、なんだかいろんな映像を見た。POAROじゃない人がたくさん映っていた。
なんの気なしにヤマキさんのブログを見に行ったら
「それにしても、今回初めてなのに通しチケットを買って、しかもあと何分も聞かずにいきなり今回のライブみたあの人はどう思ったんだろう?
そして来月は来るんだろうかw 」
だって!このあの人はわたしではないけれど、その後8年きてます!
2月。
マンスリーはパンナムさんって人のお見舞いに行ったというトークにはじまり、客席に一人を探す企画だったり。とある事務所に所属している人の連絡先を知っている、で一人になったような、なっていないような。
マンスリーに連れて行ってくれたおじさんがライブ後に鷲崎さんに「ライトアップ!!!、かっこよかったです」と話しかけていて、ひぇ〜〜〜〜タレントに話しかけてる…と思った。
「そうなの、おじさんかっこいいの」と気を遣ってわたしにも声をかけてくださったのだけど、ずっと一方的に眺めて来たスターは眩しいので、なにも上手な反応ができないまま終わった。来月は自分も高校を卒業だから聞けてよかったなぁみたいなことを薄ぼんやり頭の端で考えていた。
記憶は曖昧だけど、ここで初めてお手紙を渡した気がする。気が、する…。
初めて渡した手紙の便箋がどれだったかは記憶しているけど中身はさっぱり覚えていない。茶色で窓がある封筒に、クリーム色で小鳥柄の便箋。
お手紙に書いた内容は、恥ずかしいから今もなるたけ忘れるようにしているので、ここから今までずっと同じことを書き連ねている気もする。
帰りにこの人がトークに出てた人かぁとパンナム航空さんって人をフォローした。
POARO女子限定当日
当時の店長に間違えてシフトを入れられてしまっていて、初めて他の人にシフトを交換してもらって参加した。
「POAROのCDを持ってる人〜」の声に全然手が上がらなかったり、サプライズのピンクのサイリウムを出すのにまごついたり、オリジナルチロルチョコをもらったり(パッケージ、頑張って綺麗に開けたのでいまだに大事に持っている。伊福部さんだけちょっと破れてしまった…)、お二人にサインをもらったり、終了後にそこで出会ったPOARO女子ファンとそのまま池袋に行ったり、たくさんのことが思い出に残った日だった。
その日手にしたチョコやチケット代わりのポストカードは実家のコタツ布団を背景に撮影してmixiにアップした。
3月、東日本大震災。
高校卒業式の予行の帰り、駅に向かうバスに乗り込んだところで大きく揺れた。その瞬間は地震だとは思わなくて、バスの運転手さんも「乗り込みでふざけないでください」とアナウンスしていた。
バスだから大きく揺れたんだろうと軽い気持ちでいたら、駅は入場制限がかかっていて帰れなくなっていた。そのままみんなでとりあえず座れる場所にとカラオケに移動して、そこそこ家が近かった私は母に迎えに来てもらって友達何人かと家に帰った。
卒業式は延期となり、駅から高校までのバスはガソリン不足で運休になった影響で、何日かに分けて各々のタイミングで卒業証書を受けとる形式になった。
ちゃんとした卒業式をしていないからか、高校の時の友達とは今でもなんとなく学生の時と同じような気持ちで会うことができる。
3月のマンスリーは地震直後の日曜日で、チャリティーライブになった。椅子が並んでいなくて、床に座ってPOAROを眺めた。はじめて一人で参加したマンスリー。高校生なりの小銭を募金箱に入れて帰路に着いた。
アコギな夜も配信があって、パソコンの画面越しに鷲崎さんのトークや歌を眺めた。新潟のおじさんも普段では行けないし初めて見ると、とても喜んでいた。
大学生
マンスリーライブに15個上のおじさんと並んでいたとき、「じゃこさんですか」と低い声で話しかけられた。驚きながらも肯定すると「パンナム航空です」と自己紹介された。あの日お見舞いに来てもらってた人!
当時すでにあったPOAROファンのコミュニティに属していない女は本当に少数だったのでTwitterから特定されたのかなと思う。
そこからPOAROファンの方をたくさん紹介していただいた。
450回記念ライブの前日に、太陽爆発さんのお家にみんなで集まる会に参加させていただくことになり、その直前くらいに流石に初回から家に行くのも怖いからと初めてPOAROファンの皆さんと飲みに行った。
POAROの声で聞いたことのある名前の方を目の前にして、なんとも不思議な感覚だった。新宿の居酒屋で、お手洗いに行った時に思い切りストッキングを引っ掛けて伝線させた。他には何を話したかも覚えていないし、未成年だったのでずっとジンジャーエールを飲んでいた。それは今も変わらない。
2012年
自室で寝ていたら、夜中にどうも腰が痛くて目が覚めた。腰痛解消方法を調べてストレッチしてみたりしたけれど、一向に良くならない。
徐々に強くなる痛みに母を起こし救急車を呼んでもらった。
初めての救急車、「尿路結石の疑いあり」と隊員さんが話しているのを聞いてこの歳で恥ずかしくて死にたいと思ったけれど、結果腎盂腎炎だった。
翌朝から入院して、お見舞いにPOAROファンの方が来てくださった。
完全に治癒するように缶チューハイを置いて行ったり(未成年)、アイドルから貰いたての梨を又貰いしたり、大喜利の同人誌をいただいたり、POAROファンのお見舞いのスタイルは様々である。
POARO女子限定クリスマスライブ。
まだPOAROファンの同性の友達がいなくて、高校のときの友達にお願いして一緒に来てもらった。
わぁ、久しぶりじゃんとステージから声をかけられている女子ファンの方を見てすごいなぁ…認知されているんだなぁ…と思っていた。
このときに初めてPOAROのお二人と写真を撮っていただいた。
20歳になりたての私は、Half of Oneのネイビーパーカーを着て、スーツのお二人に挟まれて、ぎこちない表情でピースしている。
Half of Oneの発売って2013年年始なんだけど、グッズって先にマンスリーとかで買えたんだっけ…私の記憶違いかな…
あと会場がとっても暗くて、最初の2枚はとんでもないブレ方をしている。
2013年
森羅万象ラップの年…!
マンスリーの歴史の大きな出来事だったと勝手に思っている。
ここまでBS、ここからAS。
そして突然の伊福部さん交通事故の知らせ。
ご無事で本当に本当に、本当によかった。
この事故の話が出たマンスリーで、伊福部さんがその時着ていた服を持って来ていて、袖からステージにその服を持って来た瞬間にぶわーっと血の匂いがして、本当に大きな事故だったのだと実感した。
この年の秋、1年ちょっと付き合っていた3つ年上の彼氏に振られた。
反動的にいろんな人と遊んだりした、パワフルな1年。
でもあんまり記憶がない。はて。
2014年
新年会
大学3年生の時に、新年会がはじまった。
1回目はPOAROのお二人とはほとんど喋らぬままに終わったと思う。
緊張もしていたし、過度に話しかけないことが美徳だとも思っていたから。
ほぼ同じような理由で、サンプンハンのトーク&サイン・握手会、整理番号4番を持っていたけど握手会が怖くて参加しなかった。もったいないね。
同日にマンスリーだったこともあって、地方からやって来たコシヒカリさんと一緒に過ごしたように思う。
整理番号の紙は今でも大事にとってある。
いつか使えるかしら:)
おじいちゃんクイズ
烏滸がましくもPOAROに個人として認識してもらえたかも、と感じたきっかけは「おじいちゃんクイズ」だったと思う。
ネットに書き込むことは憚られる内容なのでクイズの説明は割愛。
わたしはラジオに投稿したり大喜利をすることはないけれど、自分が書いたものを読まれることの緊張や、笑ってもらえた時の特別さみたいなものはこういうことかなと勝手に気持ちを重ねてみている。
祖父エピソードはたくさんあるのだけど、問題文や答えのインパクトとか、POAROがこの問題を膨らませられる余地やヒントがちゃんと入ってるかとか、音として聴いた時にちゃんと伝わる問題文かなとかいろんな成立感を考えて書いてみるとなると、なかなか提出ができるクオリティのものは限られる。
ただ、そんな客側の力量なんて関係なしにお二人が面白く楽しく広げてくれるので、推察能力の高さとか、答えまでの運び方とか、流れで足されていくルールに則った面白さとかに、毎度めろめろになってしまう。
ヤマキさんのブログで褒められてたので生涯自慢しますね:)
あと、クイズ出す人にもセンスというか、もちろん問題のセンスもあるんだけど、お題の答えも、間違ってても、違いますってだけの人と、答えによっては惜しいとか、方向性から違いますとか、答えに上手く誘導できるヒント的な答え方したりとか、その辺が上手い人と下手な人がいて、上手い人は良いなぁとは思いますが、自分が出して上手く出来るかっていうと自信が無くてそもそも出すの躊躇っちゃいますな。
声がかわいいって言われてる人、問題も去ることながら、その辺の塩梅がすごく上手いと思っていつも感心してる。
伊福部さんに声かわいいねって言ってもらったんですよ!:)
その後のトークテーマで他の方のおじいちゃんクイズが出題されるも問題文の文字でこの子のじゃないと言われたり、反対に文章を読んで君でしょと言ってもらえたり、美味しく嬉しい思いをたくさんさせていただいた。
タレント側は覚えてない小さなことでもファンは覚えて長いこと大事に抱えて何度も思い出しているものです。
就活
就職に対して熱い熱量もなかったので適当にこなしていた。
中学生の頃はラジオに携わりたい!メディア関係に就きたい!みたいなパワーがあったけれど、この頃にはもうそんな熱意もないただの消費者だった。
営業は向いてないよなぁ、大手企業も合わなそうだなぁくらいの温度感で数社、多少興味が向きそうな業界を受けていた。私の時は12月に就活が始まったので、いよいよ終盤の5月ごろ、不意にやっぱりなんか物作りしたいかもと思い立って、選考が進んでいた企業を全て辞退して就活をし直した。
なんやかんやあって自分の職種も知らぬまま契約書にサインをして、知識も皆無の中、気がついたらWEBデザイナーになっていた。ので、必死こいて独学で日々の業務をこなした。
ベンチャーのIT企業は蓋を開けてみればご多分に漏れずそこそこの長時間労働で、私の平日の自由な時間はみるみる減っていった。
と同時にお仕事に関係しないもののインプットがしんどくなってしまって、このころはラジオを聞くどころか、新しい漫画や本を読んだりテレビを見ることもほとんどしなかった。
2015年
2回目の新年会。
昔、鷲崎さんがマンスリーライブでサヨナラCOLORを歌ったことがあったと知って、またいつか歌ってくださったら嬉しいですとお伝えしたら、
今歌ってあげるよ!とギターを取りに行ってその場で歌ってくださった。
感極まって涙がこぼれたとき、「泣かした!俺の力じゃないけどね」と言われて、うまく返せなかったことを今でも後悔している。違うもん。
そのあとに鷲崎さんが「どっちのファンかずっとわかんなかったけど、新年会はこういうのが分かるねぇ」と仰っていた。
POAROファンにはどっち派とかはありません:)
鷲崎健 4thアルバム&1stワンマンライブ 実現プロジェクト
CFの日の夜、わたしは元彼氏の家にいた。568で支援したいな〜と思いながらも全く繋がらなくて、朝までは大丈夫ですよというアナウンスに眠りこけて目覚めたらすでに568の枠は終了していた。今なら考えられない為体である。
アニスパ最終回
ほどなくして、アニスパが終わった。このあたりの記憶はあまりない。
知り合いのファンもたくさん出待ちをしていたけど、行かないことを選んで、一人暮らしをはじめるべく引っ越したばかりの新居で過ごしていた。
鷲崎さん1stワンマンライブ
910で支援していた太陽さんから、グッズがライブ開始前には受け取れず、アパレルグッズを着てライブに参戦ができないかも、という話を聞いて、オリジナルのパーカーを作った。
ユニクロのパーカーにアイロンプリントでデザインを転写した簡易的なものだったけれど、作っていてとても楽しかった。
「ファン活動っぽい何か」を初めて作った機会だったと思う。
鷲崎さんの今までのアルバムのモチーフを乗せたデザインと、サメパスタのイラストをプリントして着て行った。(当日わたしはもちろんグッズを買って、結果910の人もライブ前にグッズを受け取ることができた)
ライブ当日は自分の誕生日で、開催が決定してからずっと浮かれていた。
当日、今だから書くけれどとんでもなく臭い人が隣の隣の席にいらしたので(マンスリーで自分の体臭をネタにしていた人だった。忘れない。)100%のコンディションで臨めなくて、環境だけが最悪だった。
「Dear Birthday」の「今日誕生日の人〜!」という流れに大きく手をあげた。我が家に届いたDVDは残念ながらアンコールの部分がうまく再生できなくて「Dear Birthday」のくだりが見られずもどかしい思いをしていたのだけど、最近になって友達から借りたDVDでもう一度見たときにも改めてきちんと手を挙げた。同じ誕生日の小杉十郎太さんは、冒頭に書いた暴プリにも出演されている。勝手に感じる縁。
あと何分最終回
そんな最高潮の気持ちの直後、好きなものとの別れは突然やって来た。あと何分が終わるという発表。
新卒1年目、適度に会社の経営が傾いていて、ちょうど転職活動をするかしないか、バタバタしていた時期だった。
とりあえずベロベロバンバンのチケットは確保しにローソンへ行ったけれど、終わってしまうのか、と。ずっと実感がなかったように思う。
結局イベント当日でも実感は沸かず、バンバンでドリンクのおかわりに並んでいたら伊福部さんがふらっと来てくださって、「俺こんなときでも知った顔としか話せないなあ」と乾杯して去って行った。知った顔!なんて嬉しい!と、間近に迫る最終回を考えもせず、とても舞い上がって終わった。
あと何分の最終回当日、人生で初めての入り待ちをした。
女子ファンの方と何か差し入れをしようという話になり、あと何分の放送開始年に作られたワインに決めて、せっかくなのでと番組仕様のワインラベルを作った。19時30分より前に退社すると翌日呼び出される会社を定時で飛び出して、スタジオに向かった。もうすぐ4月なのに夜はまだ寒くて、おふたりを待っている間に武長さんが暖かい飲み物を差し入れてくださった。
POAROのおふたりが「最終回なのにこれしかいないの?」とおっしゃっていたことをずっと覚えている。
伊福部崇のラジオのラジオ Vol.6
年越しのイベントというものに初めて参加した。
内容は無論SNS禁止なので書かないけれど、好きだったメディア論に通づるような話題が出て一人でニヤニヤしていた。ラジラジのイベント、おそらく第一回から何回も行っているはずなんだけど、アウトプットのタイミングがないからか毎度「伊福部さんは天才だなぁ」という陳腐な感想で蓄積されている。
2016年
1月、振られた彼氏となんやかんやあって復縁した。
もう1回付き合うことになった時に食べていた卵焼きにはビニール袋が混入していた。
鷲崎さんワンマンin大阪
POAROファンのみんなと大阪へ向かった。
大阪観光もして、POAROが行っていた焼肉屋さんに行ったり、初めての聖地巡礼を楽しんだ。ファンとは厄介なもので、みんながホワイトボードを持っていてそれが当たり前の光景だった。
東京のライブとはまた違った良さがあって、当時の日記はとても気合いが入っている。この旅行記は、よく見返すページになっている。
はじめての転職
いろーーーーーんな事があって新卒で入った会社から、さっと転職した。
恒常的な長い勤務時間からは一旦解放されて、今まで涙袋だと思っていたクマが消えた。驚いた。
ウイスキー&ビアキャンプ長和町2016
学園祭学園のステージを見に、POAROファン何人かと車に乗って長野県へ行った。美味しいお酒とご飯とライブに気分が上がってすっ転んで、顎とヒジ・ヒザを擦りむいた。恥。数年ぶりの転倒は痛みより羞恥心が辛かった。
救護室でおじいちゃん先生にマキロンで消毒してもらって、ペンションのお風呂で傷がじわじわしみる感覚を久々に味わった。
2017年
2社目のお仕事、どたばた闇の1年。
POAROに手帳にサインをもらって、しんどかったらそれを眺めていた。
すごい心の震わせ方。
4月に彼氏と同棲を始めた。
共通の友達に付き合っていたことを、このタイミングで打ち明けた。
2018年
転職2回目
結局2社目も色々あって、よいタイミングで紹介いただいた会社に転職。
2社目は辛かったけど一番スキルが身に付いた期間だったと思う。
遠藤会バスツアー
鷲崎さんのフル参加を聞きつけて、遠藤会バスツアーに初めて参加した。
鷲崎さんのファンっぽいパーカーをつくり、噂に聞いたお部屋訪問の準備に女子部屋のみんなで盛り上がった。
パーカー、たくさん反応いただけてとっても嬉しかったな。
チャリティーライブ2019
チャリティーライブ開催の発表があって、千載一遇のチャンスとPOAROの全曲のタイトルでタイプロゴを作り、フルグラフィックのパーカーを作った。12日間で71曲分。
デザイナーとして働いてきたどの繁忙期よりも頑張って、どの案件よりもやる気があって、とにかくイラレを触り続けた。
単体のロゴを作り、シームレスパターンになるように配置し、テクスチャを作成して、ライブロゴを作って、POAROのお二人のドット絵を朝生ちゃんに作ってもらって…
久々にとても活動的な期間だった。
前日もパーカー制作に乗っかってくれた人にプレゼントする曲名のバッジをひたすら作った。ありがとう、ちぢめ職人。たくさんプラ板を焼いてもらったね。
ライブ当日、お昼のSDBのイベントの後に伊福部さんに「それ、作ったやつ?」と引き止められた。肯定すると向さんにも「すごくない?」と見るように促してくれて、伊福部さんの優しさに浸りながらチャリティーライブの開場に並んだ。
ライブはもう書く必要もないほど最高。とってもいい席でみることができて、皆さんに大感謝。この日のステイさんのブログが本当によくて、ことあるごとに読んでいる。
ライブ終盤に「そういえば」とパーカーについて触れて、ステージにもあげてくださった。何とも形容し難い一瞬だった。
その後紆余曲折があってPOAROのお二人にもパーカーをお渡しして。
お渡しする時に伊福部さんに風邪を引かせてしまったり、いろいろ、そう、いろいろあったことは、タイムリープできるならやり直したいBEST3のうちの一つだけれど、お二人にサインをもらったこのパーカーはずっとリビングに飾っている。
2019年
このころになって、POARO女子ファンとめきめき仲良くなった。
単純に女子の人数も増えたこともあったけれど、一緒に何を作ったり何でもなくただ話がしたい友達ができたことは、私にとって大きな変化だった。
遠藤会バスツアー
2回目の参戦。今回は「鷲崎部」のジャージをつくって、現地で風車を買ってめちゃくちゃに遊んだ。
旅の途中で回りが悪くなった風車は思い出の品としてリビングにおいてある。
思春期奄美バスツアー
前日の夜から移動の道中、おかわりちゃんと「朗読者」の考察についてたくさん話した。文字というメディアの獲得による情報の保存性の向上と、言葉を用いたラベリングによる記憶の関係性とか、思うことなんでも口にして、それに答えてくれるのがとにかく刺激的で。
この話が盛り上がりすぎたからかテンションが異常で、奄美にいる間、何をしても全部が楽しかった。箸が転んでも笑うとは言い得て妙だ。
フランクな挨拶の練習をしたね:)ハァイ!
仙台
短いスパンで仙台に2回行った。
1回目は公園で落ちてるお煎餅をスマートに拾おうと共闘してたら偉い目に遭った。2回目は7枚の紙で3枚の紙を手に入れた。錬金術。
仙台、あな恐ろしや。
夏
8月。保原サマーフェスティバルに鷲崎さんが出演されるので福島へ行って、翌日ラジオのラジオのイベントに戻るという、POAROに会う2DAYSを過ごした。福島で買った桃を抱え、甘くてみずみずしい香りの中楽しむラジラジはまた格別だった。
ラジオのラジオのイベントのたびに、本当に伊福部さんは天才だなと思い知らされる。何度も言う。いろんなイベント構成そのものだったり、ほんの一言のフォローだったり、これ!!と具体的に言語化できないのがもどかしいのだけど、きっとみんなわかるはず:)
さらに伊福部さんは最近特にキュートなのでずっと心を奪われている。
カップラーメン2つにお湯を入れてそっと運んだり、みんなの楽しそうな声に麺をすすりながら見にきたり、ゴンのくだりで崩れ落ちたり、盗んだ卵でオムレツしたり。最高。
2019年9月14日
TGS
TGSに参加してチャリティーオークションを初めて観覧した。
今回ばかりは大人しく眺めて、いつものPOAROやラジオとは違う鷲崎さんや、仙台のときとも違うオークションの雰囲気を楽しんだ。
しんけんじゃ
ラスト数十分だけになってしまったけれど、チャリティーオークション終わりにそのまましんけんじゃのイベントへ。
イベント終わりに多分初めて伊福部さんに握手をしてもらった。緊張した。握手を求めたら「君そういうファンだっけ」と言いながら両手で握ってくれた。どういうイメージだったのかしら:)
POAROづくしの1日の夜、イベントに行ったその足で、POAROがお見舞いに行っていたことで知った、CF開始の夜を一緒に過ごした元彼・パンナム航空さんと入籍しました。
フォローした時はPOAROがお見舞いに行くなんて近しい人に違いない!と思っていた彼は一端のファンでした:(
入籍はPOAROのお二人の誕生日の真ん中の日に決めて、(入籍の日取りを考えた時はマンスリーの予定日で、たまたま大安で、いろんな偶然が重なっていた)婚姻届はチャリティーライブの時に作ったロゴを施して自作して、指輪にPOARO MonthlyLiveと彫って、勝手にいろんな想いをのせました。迷惑千万!
籍を入れたからといって何かが変わるわけでもなく、特に彼と一緒にイベントに行きたい!というような甘酸っぱい気持ちもないので、これからもマンスリーは別々に家を出て各々で楽しむ、これまでと変わらぬ二人で、これからも変わらず各々POAROファンとして生きていきます。
たとえこの先お互いが違う道を歩む結果になったとしてもきっとお互いがそれぞれPOAROファンとして過ごしていける(一度別れた時でもお互いにマンスリーやイベントには来ていた実績あり!:) )人としばらくは一緒に歩むことになったので、せっかくならこれまで以上にPOAROを勝手にパワフルに愛していく所存です。
初めてラジオを聞いた春も、719の夏も、マンスリーに行き始めた冬も、こんな未来の秋を想像はしていなかったけれど、勝手に好きになって、勝手に人生に寄り添ってもらって、生まれてからの半分以上好きで過ごしてきた生き方は変えられないので、この先もずっとPOAROファンでいるのでしょう。
早く次のマンスリーの日にならないかな。
2019年9月
じゃこ。