しんやの餃子世界紀行 Vol.57
「クリエティブとはなんぞや」
守屋とよく話す中で
「クリエイティブ」
という言葉がよく飛び交う。
「今度しんやにとってのクリエイティブがなんなのか文章で書いてみてや」
という話になり、せっかくだから色々考えたものを書き連ねてみようかなって思う。
クリエイティブという言葉を紐解けば、創造や独創という意味になる。
1から100を産むことより、0から1を産み出すことが近いイメージだ。
しんやはどちらかと言うと、1から100を限りなく0から1に見せることが出来るタイプのクリエイターだと自覚している。
やり古されたものを新しく見せるテクニックに長けている。
文章を書くという行為がしんやにとってのクリエイティブな訳だ。
そもそも書くことは歌と絵の次に古いカルチャーである。
言葉は他のクリエイティブと同様に日々進化を続けているので、その進化に沿った文章を書きたいというのが最終目標だ。
しんやが生み出した言葉があればそれはかっこいいが、そんな言葉を作ることは金輪際できないだろうという自信がある。
誰かが使い回した言葉を何と無く新しく見せる努力を日々の執筆で心がけている。
毎日書いていると書き慣らされる言葉で頭がショートしてくるのだがそこをなんとか交わしながら表現する。
「書く」と「読む」は表裏一体なので、書くことは「読ますこと」と胸に誓って毎日四苦八苦しながらやっている。
そんな日々の中で気がついたことは「書く」というクリエイティブはすでに「オワコン」だということだ。
90年代のファッションがダサすぎてカッコ良いみたいなノリで書く・読むの面白いやんってなってるだけ。
近年のクリエイティブをしんやなりに分析すると、理解にするのに脳の消費が少ない物が好まれると感じている。
YoutTubeやアイドルのようなものがそうだ。
単純に耳や目が脳に伝達するスピードが早ければ早いほど流行る確率が高い。
かっこいいや可愛いなどの感情がすぐに判断しやすい方が良い。
そこに憧れが加わって一気に加速していく。
どうにも書くことや読むことは遠回りがすぎるのだ。
あと単純にダサい。
だからこそ僕はダサいにクリエイティブを見出した。
要は読むことをもっと早く脳に届けるように努力して書けばいいのではないかという説である。
「書ける」という才能自体は現代においてクリエイティブではない。
ただ書くことを届ける作業の中で、読み手にとって読みやすい文章はクリエイティブなんじゃないかと。
だから上の世代が読む可能性を度外視して、読むことに慣れない人をターゲットにしようと、そこに全振りした文章をお届けしている。
つまるところクリエイティブって、生身の人間に備わってるものをどうやって表現するかってことなんじゃないかなって思う。
例えば歌手が歌がうまいことはクリエイティブの舞台に立つ上で最も当たり前のこと。
もうそれは大前提の大前提。
歌がうまいから、歌手になれるわけじゃない。
歌手になるために必要なことを考えることが歌手になるために必要だと思う。
守屋もそうやって、クリエイティブを餃子を通して表現してるわけだ。
俺には芯があるから、で売れたらみんな苦労しない。
この街で僕はたくさんのクリエイティブと出会ったが、僕も君たちと同じように前に進みたいのだ。
だから僕はクリエイティブがどうすれば前に進むかを考えた。
それが僕のこの餃子世界紀行。
思ったことをいかに君の脳に届けるかが僕のクリエイティブ。
クリエイティブを発信する場所を餃子世界から貰った代わりに、餃子世界のクリエイティブを世に発信すること。
カッコよく言えばね。
でもそれに尽きる。
もしこの文章があなたの頭に富士山の天然水のように染み込んだとしたら。
それがしんやが世に発信した初めての0から1なのだ。
繰り返し言うが、僕は新しい日本語を作ることはできない。
ただ、新しい文章との触れ合い方を伝える可能性があるのではないか。
その一点。
それがしんやのクリエイティブ。