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3ヶ月間の兄貴、そしてカレーの味
氷川台に住む同期の大堀さん。
彼はブラックな職場に放り込まれて、入社して3か月で辞めた。夏を迎えてすぐのこと。世間的に退職代行が流行り始めた時代だった。そんな中、会社で初めて退職代行を使い、結果的に”流行らせた男”として名を残したのが彼だった。
私と大堀さんは同じ年に入社したが、彼は私より2つ年上だった。寡黙で大人びた人。だが、たまに突拍子のないことを言ってみんなを笑わせてくれるお茶目な一面も持っていた。そんな彼を、私はひそかに「兄貴」と呼ぶことにしていた。
兄貴とはすぐに仲良くなった。お互い一人暮らしだという些細な共通点が自然と距離を縮めてくれたのだと思う。昼休みになると、会社に一つだけある電子レンジ前で、持参したカチコチのおにぎりを解凍するのを2人で見守った。熱々にし過ぎたおにぎりを交互にパスしながら、じゃれ合ったりもしたな。そんな何気ない日常の中で、兄貴は私の「兄貴」になっていた。
一度だけ兄貴の家にお邪魔したことがある。それは、私にとって忘れられない夜だ。
その日は仕事終わりにランニングに出かけた。私を飽きさせない馴染みのない東京の風景。そんな光景が無尽蔵のスタミナを私にくれる。気づけば、中野のアパートから、遠く離れた小竹向原まで来てしまっていた。兄貴の家が隣駅だと思い出し、ふと連絡を入れると、即座に返事が来た。
「カレーでも食べる?」
位置情報と共にそんなメッセージが添えられていた。
築30年越えの木造アパート。プレハブのような外観がどこか懐かしい。その部屋に足を踏み入れた瞬間、美味しそうなカレーの香りが充満していた。
長野の実家から送られてきた袋一杯のにんじんとじゃがいも。スーパーで買ってきた玉ねぎ。あとは豚ひき肉。スパイスから作ったという無水カレーは兄貴自慢の一品だった。材料はシンプルでも、味は深かった。今でもそのカレーの思い出は頭の中に色濃く残っている。
兄貴は配属された部署がいかに過酷かを教えてくれた。終電前に会社を出るのが基本。先輩には愚痴を言われる毎日。出会って初めて弱音を吐露する兄貴の姿。私はそんな兄貴の話を聞きながら、ただ頷くことしかできなかった。彼は首の皮一枚で自分を保っている。だが、私はそんなボロボロな兄貴を心から尊敬していた。
私たちは、日が回ってもウイスキーを飲んでは、お口直しにカレーを頬張った。話題は尽きず、笑い声が絶えなかった。気づけば私は泥酔していた。明日も仕事だったが、その夜は特別なものに思えた。千鳥足で向かったその日の仕事。辛かったが、あの夜の余韻だと思えば頑張れた。
1年後、私も会社を辞めた。辞める前の人事面談で、「君も退職代行を使わなくて良かった」と言われ、なんだかホッとした。退職代行に対する言葉を聞いた瞬間、兄貴のことが頭をよぎった。兄貴が円満退社に一役買ってくれたと。退職代行を使ったあの潔さは、彼らしい選択だと私は思っている。
兄貴は最後まで兄貴でいてくれた。どこかでスパイスの香りを感じるたびに、私は兄貴との日々を思い出す。
兄貴、元気にしてるかな。私も、今は元気でやっています。
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