【短編】デニムジャケットのポケット 第3話(全3話)
2話目はコチラ
ルイは谷の向こうを見つめながら、胸の奥で言い知れぬ焦燥感を抱えていた。彼の世界が「ここ」で終わるのか、それとも何かが待っているのか――それが知りたかった。けれども、その一歩を踏み出す勇気がなかった。谷の深さは恐ろしかったし、その先に何があるかは全くわからなかったからだ。
「進まなきゃ…」ルイは自分に言い聞かせるように呟いた。しかし足は動かない。ラオが軽く鳴いたが、その声はどこか寂しげだった。
一方、エイトもまた、同じ谷を見つめていた。彼もまた、進むべき方向に迷いを抱えていた。仕事や将来、心の空虚感を埋める答えは、この谷の向こうにあるかもしれない――そんな気がした。しかし、実際に踏み出すことはできない。バイクのアクセルを握るのとは違う、人間としての「決断」が求められている気がして、彼はその重みに圧倒されていた。
エイトはポケットに入れていた手を引っ込め、じっとその谷を見つめた。そこには答えがあるのか、あるいはただの虚無が待っているのか、彼にもわからなかった。何もないかもしれない恐怖が、彼の足を縛っていた。
その瞬間、ふとエイトの頭に母親の言葉がよぎった。小さな頃、彼が恐怖に直面したときに、母が言っていたことがあった。
「怖いと思うのは、進みたいって心が叫んでるからだよ。でも、無理に進む必要はない。いつか、自分が進むべき道が自然にわかる時が来るからね」
その言葉が、今になってエイトの胸に響いた。「進むべき道」というのは、自分が無理に探すものではないのかもしれない。目の前の谷が示すものは、物理的な行動や答えではなく、ただ「立ち止まることの意味」なのかもしれないと、エイトは考えた。
ルイもまた、谷の前でしばらく立ち止まっていた。進むべきかどうかを悩む自分に気づいた瞬間、彼はラオに向かって微笑んだ。ラオは、少しだけ翼を広げて彼の肩を軽く叩いた。
「進む時が来たら、わかるんだろうな…」ルイは静かに言った。谷の向こうに何があるのかを知る必要は、今はないのかもしれない。彼はそう考えると、振り返って森の方へ一歩戻った。
エイトもまた、谷から視線を外し、元来た道を戻る決心をした。進むことを恐れる必要はない。今は、この瞬間に立ち止まることが、自分にとっての「答え」だと感じたからだ。
その後、エイトは静かにバイクに戻り、ゆっくりとエンジンをかけた。いつか自分が進むべき方向が見えてくる時が来る。今はまだその時ではないだけだ。
ポケットの中では、ルイも同じように静かに森へと戻っていた。彼とエイトの人生は交わることはないが、二人は同じ「選択」を前に、同じ答えを見出していた。
谷の向こうに何があるのかはわからない。しかし、進む時が来たら、その時に向き合えばいい。ポケットの中と外、それぞれの世界で、二人はそう感じながら、新たな一歩を踏み出す時を待っていた。