3/22 「ミナリ」を観ました
3月19日に日本公開になった「ミナリ」を、ユナイテッドシネマ・札幌で観てきました。平日の夕方ということもあり、10人弱くらいと観客は少なかったです。
「ミナリ」はおばあちゃん賛歌である
映画を観た後いろいろと考えているうち、この映画の主人公は「おばあちゃんなのでは?」と感じるほど物語上の役割が大きいと感じました。
それもそのはず、題名にもなっている「ミナリ」(=日本でいう「セリ」という植物)はおばあちゃんが川辺で育てていたもので、おばあちゃんという存在を象徴するものなんですね。物語の最後ではこの育てていた「ミナリ」が窮地に陥った家族を救う一助になります。
またエンドロールの終盤にも「To all grandmothers(全てのおばあちゃんに捧ぐ)」という言葉が流れます。それだけ製作陣がおばあちゃんという存在に焦点を当てていることが分かります。監督リー・アイザック・チョンの幼少期の祖母との経験が物語の元になっているみたいです。
おばあちゃんは家族の救世主だった
韓国からアメリカに移住してきたおばあちゃんは、最初はおばあちゃんらしからぬ人柄(料理全然できない、賭け事やプロレス大好きなど)で家族、特に息子のデビットと娘のアンには中々懐いてもらえませんんでした。ですが物語が進み、特にデビットと日々を通じて仲を深めていき、最終的には家族を窮地から救うまでの役割を担うことになりました。
そんな「おばあちゃんが家族の救世主であること」の象徴は、大小様々なものが物語中に散りばめられていて、よくできた映画だなぁと思いました。例えば...
花札
おばあちゃんが韓国から持ってきて、デビッドやアンに教えます。デビッドが日曜教会で知り合ったアメリカ人と家で遊びますが、その際に花札を使って遊んでいました。友達作りの助けになったのでは?
川の水とデビッドの体調
物語中盤では、家庭用の水が父ジェイコブの農業用に使われ、出なくなってしまいます。そこでおばあちゃんはデビッドと一緒に家近くの川へ水汲みに行くようになります。その後物語終盤、デビッドは心臓の持病のため専門医の診断を受けますが、以前に比べて病状はかなり回復しており、その理由として医者は「水がいいようだ。今の生活を続けるように。」と言います。綺麗な川の水を飲んだことや、川までデビッドがいつも歩いていたことで心臓の状態がよくなったと考えられます。
最終的には、火事を起こしてしまい放浪するおばあちゃんを助けるために、デビッドは走って追いかけられるまでに回復します。このシーンはすごく感動的でしたね。
倉庫の火事と家族の再生
脳卒中になったおばあちゃんは身体を動かすのがかなり不自由になってしまい、家族が出かけて1人の時に火事を起こしてしまいます。家族、とくにジェイコブと妻のモニカは農場と家族の話で口論になり、険悪になったまま家に帰り、火事を目の当たりにします。この火事でジェイコブは出荷先がやっと決まっていた農産物の多くを失いますが、同時に妻と子供達が真に大切にすべきものだと感じたのでしょう。火事の後には、夫妻がアメリカに来た当時に話していた、「アメリカに来たら共に支え合って生きていこう。」という理想を体現した姿が描かれ、再度スタートを切っていきます。
おばあちゃんは図らずも破壊(火事を起こしたこと)をもって、家族をあるべき姿に再生しました。火事で炎が燃え盛っているシーンは悲劇であるにもかかわらず、すごく胸に打たれるものがありました。色んな映画で炎が燃え盛るシーンがありますが、炎って胸を打つものがありますよね。火事の後、家で雑魚寝している家族を椅子に座って眺めているおばあちゃんの姿もまた印象的でした。
「ミナリ(セリ)」
これは冒頭にも書いた話ですが、火事で売り物を失ったジェイコブが、息子とともに川辺に実ったたくさんの「ミナリ(セリ)」を眺めるシーンがあります。おそらく燃えた作物の代わりにミナリを出荷することで、家族は窮地をなんとか乗り越えられることが示唆されています。これもおばあちゃんが育てたものであり、またしても家族を窮地を救うのです。
普遍的な「家族」を描いた作品である
このようにおばあちゃんという存在を中心に置きつつ、父母子娘という家族の葛藤と成長という、普遍的な家族というテーマを描いた素晴らしい作品だったと思います。
正直なところ、最初イメージしていたよりは、いい意味で「地味」な映画だったかなと思います。決して韓国映画に明るいわけではなく、イメージですが、韓国映画ってポンジュノ作品などのようにかなり起承転結の落差が激しく、過激な描写も多く、ドンデン返しがあるようなイメージです。
また1980年代の韓国移民がテーマということで、アメリカ社会における韓国移民への差別や、労働環境の苦悩など社会的な背景も描かれると勝手に思っていました。
ですが「ミナリ」は落ち着いたトーンで物語が進み、かつ登場人物(家族+おばあちゃん+ポール)や登場する場所(家+農場+養鶏場)もかなり少なく抑えられています。また上で述べた社会的背景についてもそこまでスポットを当てることなく、あくまで「家族の葛藤と成長」に焦点を当てた極めて普遍的テーマを描いた作品と感じました。
同じA24製作の「ムーンライト」とちょっと似てるかなと思いました。ムーンライトも作品のトーンは終始かなり落ち着いていて、人間の葛藤に焦点を当てて、美しい映像と音楽で魅せる映画だったなと思います。その点はミナリとも似ているかな。
余談:物語上のポールの役割ってなに?
隣人?のポールはかなり変わった人間として描かれていました。極めてキリスト教に傾倒し、しゃべる時もろれつが回っておらず、どこか浮世離れしているポール。
よく考えてみるとポールは変人ですが、ジェイコブにアドバイスする時は至極真っ当なことしか言っていないのです。
例えば序盤で耕した畑に野菜を植えていく際、ポールは間を十分に開けて植えた方がよく育つと指摘します。掘り当てた水源が底を突いた際も、業者に頼んで水源を見つけるよう助言します。また、出荷先に取引を断られ、倉庫の野菜を出荷できなくなった際も冷静に次の出荷先を探すよう助言します。
しかしジェイコブは助言に従わず、水は家庭用水道から引っ張って家族を困らせ、取引を断られた際も自暴自棄になり、野菜を腐らせてしまいます。またおばあちゃんが脳卒中になった際にはポールは聖油を塗るなど気遣いを見せ、ポールにも祈りを捧げようとしますが、怒鳴って帰らせてしまう始末。
このようにポールは世間的には変人と見られていますが、ことジェイコブら家族とのやり取りでは至極真っ当なアドバイス、真っ当な行動しかしておらず、それは愛情と信仰によるものだったのです。
結局ジェイコブは火事で倉庫で燃えた後、ポールに頼って水源を探します。また火事というある種の破壊を通じて、家族という本当に大切なものを改めて認識したように思います。
つまりポールは、本来ジェイコブが「あるべき姿」を指し示す人間だったのだと思います。にもかかわらず喋り方や過度の信仰心など、いってしまえば表面的な情報で人を軽視してしまうジェイコブ、ひいては世間の危うさを指摘する存在なのではないでしょうか(教会から子供たちが帰るバスで、十字架を背負ったポールが馬鹿にされているのも、そういうことなのではないでしょうか)。